私の英語人生
娘はおかげさまで、リスニング能力が想像を超えていますが、相変わらず書くのは興味ありません。
筆記体を書くのだけは大好きなので、欲しかった羽付き万年筆を買ってあげたら喜んで書いてはいます。
ただ、読み書きだけでいうと、たしかに私のほうがまだ能力は上。
スピーキングは同じくらいで、リスニングが天地くらいの差があります。
本を読むことに関しては2歳くらいから読んでいるせいか、あまり問題ありません。
そんな感じですが、要するに、私のような日本人でも、読み書きは早い段階でかなりできるようになります。
なので、幼児教育として、あまり気にしてなくていいのではと思うことばかりです。
私は振り返ると、英語には恵まれていました。
まだ英語教育が盛んではなかったころ、小学校4年生のときに、パソコンというものに出会いました。
当時は富士通、NEC、シャープがそれぞれパーソナルコンピュータを数台発表していて、それをクラスで佐々木くんと竹内くんだけが持っていたのです。
私は佐々木くんの家にお泊まりして、富士通のFM-7で『ザ・コクピット』というフライトシュミレータのゲームを寝ずにやりました。
他にも、アドベンチャーゲームの『惑星メフィウス』も『信長の野望』もはまりました。
カセットテープで長い時間読み込むと、ファミコンとは違った世界が広がっていたのです。
私は親にとにかく懇願し、シャープのX1というパソコンを、中古でたしか5万くらいで買ってもらいました。
ゲームをそんなに買ってもらえるわけはないので、自分でプログラムするしかありません。
ジョイスティックで絵を描くソフトを自分で作ったり、マシン語なるプログラミング言語を使って、ひらがなを打てるようにしたり。
本を先生に、毎日プログラムに打ち込んでました。
プログラムのために必要なコードを覚えていくわけですが、たとえば
print=プリント
という言葉を使ったりします。
ですが、当時の私は英語を知らないので、それを「ピーアールアイエヌティー」として覚えていました。
自覚はなかったのですが、自然とローマ字は読めるようになっていたようです。
そして中学になり、英語を頑張ろうと取り組むうちに、知っているスペルがいっぱり出てきた。という感じです。
おかげで成績は良く、高校入試も満点でした。
ここまでは歳をとるとおおいに自慢できるのですが、高校で分厚い参考書が出てきて、難しい日本語が並び始め、現在完了が出てきたとき。
挫折しました。
それ以来、勉強としての英語には苦手意識を持つようになりました。
そんな私も、旅をして、沖縄に辿り着き、米軍相手のバーで働いたりしました。
まさに英語環境。
かなり適当な英語を使っていたと思います。
が、久米島という離島に行くことになり、英語から離れます。
2年後に那覇にうつり、テレビ局に勤めることになると、また英語が目の前にあらわれます。
まず、カメラマンや記者が、帰国子女ばかりでした。
当時の沖縄は政治的にいろいろなトピックがあり、将来有望な記者やカメラマンが修行の場として送られてくるのです。なので、当時働いていた記者たちは今も東京で大活躍し、一緒に働いたアナウンサーも毎日のようにテレビで拝見しています。
取材先も米軍が多く、英語は重要になってきます。
そんな環境に影響を受けて、英語の勉強を始めました。まずは辞書を使っての勉強。
そして、NYのハンター大学に入学するという目的を定めて邁進していましたが、いろいろありまして東京の出版社に勤務となりました。
ただ、その出版社が偶然ですが、海外のカルチャーを紹介する雑誌だったのです。
数年後、そこで副編集長になると、海外に電話取材の毎日。時差があるので遅くまで残って国際電話をしていました。
最初はそれは緊張するし、勇気が要ります。
まるでヴァイキングを迎え撃つブリテン人のように、英語という壁に立ち向かっていきました。
慣れると、いくらでも電話できるようになるのですが、おかげでスピーキングは上達していったと思います。
自分で英語環境に入っていったのかというと、そんなことはありません。
プログラムもテレビ局も、いつも偶然です。
出版社も、本当によく内容をわからないまま面接に行っています。
英語教育としては、雑草中の雑草。
英検もTOEICも受けたことがない。
独立してからは英語力を活かして海外撮影や取材をコーディネイトしてきました。
映画産業に関わり、ハリウッドでの体験などをいかして、
今は俳優さんたちに英語レッスンをしています。
つまりは、自分の娘と違って、ネイティブ的な体験を持たない、留学経験を一切持たない私ですが、がっつり英語と人生を絡ませて生きてきました。
20代前半でNYの友人の家に行き、コロンビア大学の学生とディスカッションしたときも、たぶん適当な英語でしたが、何時間も話して友人に嫉妬されました。
海外取材ではピンチの連続ですが、英語で切り抜けてきました。
海外の映画の現場は、子どものころの夢を叶えてくれるものでした。
なんの資格もない日本人ですが、そんな英語人生があってもいいと思います。