反射的でなくなるとき
娘と0歳から英語で過ごし、4歳ごろまでは100パーセント英語だった。それは反射的に出てくるレベルになっていて、上出来と言えた。
それが、やはり日本語をもう少し鍛えようということになり、私も日本語を交えるようになった。
もうすぐ6歳の誕生日を迎える娘の日本語は、たしかに上達した。
日本語も読めるようになり、英語もフォニクスで読めるようになった。
週に一度の英語のプレスクールでも英語漬けの日を楽しんでいる。
しかし、私は不満だ。
なぜかというと、反射レベルでの英語がお互いに減っているから。
気づくと、日常会話の多くは娘が母親に日本語で言うようになった。その日本語の逞しさや表現力は嬉しいけれど、英語は私と二人のシチュエーションや、遊びでないとなかなか出てこない。
前は反射的だったのに。
理由として、二人きりで過ごす時間が減ったこと。前は子どもを私が迎えに行って、妻があとから自分で帰ってくるというパターンで、その間に二人の時間があった。
今は引っ越して一緒に迎えるようになったので、二人きりという時間はほぼない。
お風呂の時間だったり、遊びの時間、勉強の時間はたしかにある。
でも、それ以外のトークが少なくなっている。
日本語で母親にペラペラと話しかけているようなことも、何か減ってきているような気がするのだ。
しかし実際、どの家でもそうだが、親が子どもにあまり話さないで一日が終わることも多いはず。
保育園に行って、ご飯食べて、お風呂入って寝る。
その間にそれほど時間は多くない。
英語というのは不思議だ。
前は娘以外の子どもに話しかけようとしても、思わず英語が出てきた。
反射的だったのだ。
だから娘にも反射的に出る。それが最近、衰えていると感じる。
お互いに、「日本語でも通じる」という意識が芽生えているせいだ。
0歳からずっと、日本語はわからないふりをしてきた。
それを、使うようになってから雪崩式に崩れた。
「わからないふり」の威力は、凄まじかったのだ。
これを戻すのは、かなり困難だと思う。
自分自身の英語時間を増やすこと
この状況を前の状態に戻すために、何をするべきか。
それはまず、自分自身の日常生活における英語時間を増やすしかないと思った。
私は自宅で仕事をしていて、日本語を使って昼間は過ごし、考えている。
だから当然、日本語でいろいろ考えているし、日本語で生活を送っている。
英語のリスニングをしたり本を読んだりする時間はあるが、それは日常生活ではない。
つまり、ドアを開ける、何を食べよう、昨日はこうだったけどあっただった、電源にコンセントをさそう…といった日常で考えることを日本語で考えている。
英語で考えるべきだと前の本で提案したが、自分が出来ていない。
出来ていないからこそ、これを続けるのは難しいことだという認識はある。
だが、やりたい。
久しぶりにやってみると、やはり新鮮な気分になる。よっぽどやっていなかったという証拠だ。
また、「感情表現からはじめる」も時々忘れてしまうので、これも心がける。
「何か英語で話しかけないと」と思うこと自体が反射的ではないのだ。
日本語に傾きかけた家庭に、英語のバランスをもう一度。
まずは自分自身の問題として捉える。