母国語を習得するプロセスと、第二外国語として学ぶプロセスの大きな違い。001
※『言葉を選ぶ「根拠」を変える』のマザータングバージョンです
小さな子どもが母国語を覚えるときに、当然、もう一つの言語と比較したりしない。
でも英語を学習中の大人は、すぐに「日本語だとなんて言うんだっけ?」となる。
日本人にとっての母国語として日本語を考えたときに、「そうだよね」とか「まあね」「いや別に」という言葉を外国語に置き換えたりはしない。日本語のままで完結する。
「こういう状況で、こう言いたいときに、こう言う」というのを把握していて、意味を考えたりもしない。
英語も同じで、
Not really.
と答えたときに、それが日本語だと何なのかとか、reallyの意味とかを考えたりしない。
状況や会話のパターンがあって、「そのときにはこれを使う」という方式が頭にあるから使う。
それは、日本語で書かれた英語の本から教わったものではなくて、「同じような状況で使っている人を見たことがある」という経験から来る。
理屈や文法ではなく、まるごと、「このときはこう」というシンプルな経験則から使うのだ。
発音もイントネーションも含めて、「見た」という経験がもっとも強い根拠となる。だから、それを文法的に否定されても、ちょっとやそっとじゃ譲れない。
そうやって母国語はできあがっていく。
推測の積み重ねだ。
経験と推測の分厚さが言語習得になり、話せる量になるので、日本語にどう訳すかという勉強ばかりしていても、一向に話せない。
根拠に欠けているからだ。
自信がない。
この圧倒的な違いに気づいて、目覚めて、取り組めるかどうか。
それが母国語として言語を習得する分かれ目となる。
まず初期に、短い言い方をまるごと覚える。その後は、応用(一語一語)があるが、ここでは触れない。
「推測だけで言語を習得するなんて馬鹿げてる」
わからない言葉があったら、すぐ調べて意味を知りたい。
そういう病気にかかっているなら、この章を読んで治療してもらいたい。
わからなくていいのだ。
たとえば英語で語る日常生活のYoutubeがあるとして、それがシンプルなものであれば、どんどん推測できる。
でも、ニュースのように画面に向かって語りかけるようなものだと、それが出来ない。
だからわからなくて当然。
スタートは、日常の会話から始まる。