英語を母国語として身につける

「文字なき記憶」

 

「子どもは大人よりも言語の習得が得意」という現象に対して、ますます興味深い事象が私の実生活で起こっている。

今、ベッドタイムストーリーとして『ねむりひめ』と『花さき山』を中心にしているのだが、『花さき山』は英語版で、音声CDも付いている。それをiPhoneに落として聴かせたら娘が気に入ったようで、私が「読ませて」と言っても、「嫌だ」と断固拒否。

一週間ほどそれが続いて、どうしても読みたいので再び懇願すると、「いいよ」と言ってくれた…。

やっぱり絵本は自分で読みたいじゃないか…それが親心である。

さて、と意気揚々、私は読み始めた。

すると、途中で「違うよー」と笑いだす。

It’s not “eevil”. It’s like “aval”.(イービルじゃないよエイヴァルだよ)

evilという単語の発音について、私に指摘するのだ。

もう最近はこんなことがよくあるので、素直に娘の発音指導を受ける。娘が言うとおりに発音すると、

That’s right!

と「認可」を頂くのだ。

そういった指摘や、文章の細かい部分で何か指摘するので、「もしかしたら文章を覚えているでは?」と思い、「読んでみて」と提案してみた。





前に別の絵本で冒頭の英語を覚えていたから、少しは覚えているのかもと思ったからだ。

すると、娘はすらすらと冒頭の3行文くらいを暗唱しだした。

 

その3行は簡単な英語だけども、一緒に何度もその文を聴いていた私は暗唱はできない。

どうして娘はそれを簡単に覚えてしまうのか。

今まで何度も疑問に思った、この「文字なき記憶」が子どもの言語習得における需要な要素と能力だと、確信しつつある。

そのせいか、「田中角栄は吃音だったが、浪速節を朗詠することで克服した」「アイヌのユカラは文字を覚えることで衰退した」といった情報が気になり、私のもとに届いてくる。

 

娘の暗唱を聴いたあと、CD音声を流しながら、一緒にリピートしてもらった。娘は綺麗に一緒に発音していく。

私はいつも文字を読みながら音声を聴いている。

結局、音声を聴いていない。

文字を読むのをやめて、音に集中した。

どこで途切れて、どこにアクセントがあって、という音。

集中すると、その情報が入ってくる。

文字を読んでいた私が、聴いているつもりで聴いていなかった部分だ。

それでも、「文字を知る大人の私」には、結局暗唱はできないという気持ちが心の中にはある。でも、近づく方法があるのではないかと思っている。

その方法として、「音だけに集中する」というのは何度も言っているのだが、それをやろうとしても邪魔するものがある。

「知識」だ。

 

私の場合で考えると、リスニングをしていて、知らない言葉が出てくると、無視する傾向にある。新聞などを読んでいても同じ。

知っている言葉には強く脳が反応するのに、知らない言葉には興味があまりわかない。

知っている言葉も知らない言葉も、同じレベルで捉えて、音を聴いて、覚えることができたらいいのに。でも出来ないから、知っている言葉だけが記憶に残る。

この状態を克服しようとして、「知らない単語も(意味よりも先に)音から覚える」という姿勢を考え続けている。

なかなか伝わらないのは承知している。

本にもその方法をさんざん書いたけれども、伝わっていない部分もあると思う。

 

勉強という快感に勝てるのか

 

「意味を知らないのに、音だけ覚えてどうするのか」

それが素朴な疑問だ。

私も、娘は『花さき山』を静かに聴いているが、意味がわかっているのかどうか知りたいから、私が読みたかったのだ。

私が読む場合、わかりやすく解説を加える。

少し難しそうな単語を知っているか訊いてみると、やはり「知らない」と返してくる。でも、音はすでに覚えているのだ。

「音だけ覚える」というのは、大人には苦痛だと思う。

できるなら避けたい、意味を早く知りたい。これが本音だ。

そして、これが大人が言語を覚えるのに苦労する理由だと言える。

 

勉強は楽しい。私も英語の勉強が好きだ。

意味を知り、知識を蓄える。そこには快感がある。

だから、好きだったらずっと勉強できる。一言もしゃべらずに、音を聴かずに机に向かうことだってできる。

私はほとんどそういう方法で10年以上を過ごしてきたのだと思う。

つまり、音に興味を持てなければ、母国語のように言語を習得することはできないのだ。それは、もう間違いない。誰がどう否定しようとも、間違いない。

解釈方法や言葉の意味に興味を強く持っていた私とは、まったく逆の位置にそれは存在している。

 

娘はもうすぐ4歳になる。まわりからは、「ひらがな」「アルファベット」といった文字を読んだり書いたりすることを、そろそろしたほうがいいのではないかという意見が聞こえてくる。

小学校入学までに、そこはしっかりやっておきたいというのが、親心。

私もなんとなく漠然とした不安がある。

でも、同時にこんな不安もある。

「文字を早くに覚えると、聴き取りと記憶の能力が衰退する」という考え方だ。

確信は持てないものの、アイディアとしては心の中でどんどん育っている。

小学生になるまではどんどん言語を覚えて、読み書きはそのあとでいいのではないか。

漢字はまさに読み書きの勉強が必要だが、それ以外の部分は音を中心とした勉強というアイディアもある。

「書いて覚える」という方法を信じて勉強し続けた自分に対する反省でもある。音で覚えるのは邪道で子どもっぽいというイメージがあったから、年号を語呂で覚えるのも嫌だった。

でも、大人になっても使うのは九九という音、メロディだ。

にさんがろく

あの音なくして、読み書きで私は暗記できたのだろうか。

 

あんなにたくさん覚えていた電話番号を、どうして忘れてしまったのか。若い世代だと、そもそも「友達の電話番号を覚える」経験すらないかもしれない。便利を究めるテクノロジーは、音で記憶する能力を衰退させていく。アイヌが文字というテクノロジーでユカラを失ったのと同じように。

「文字なき記憶」を追究しよう。

その先には、未来人が失う何かが必ずある。


  
 


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