英語の勉強の順番が違う件について考える。

英語の勉強の順番が違う件について考える。

ネイティブが世界の人に向けて英語を教える場合に、たとえば

「neverthelessはこう使う」という感じで教えます。

もしくは、

cut it outは繋がって、カディダウという音になるとか、時にtはdの音になるとか。

こういったものは、文字や単語から勉強した人を相手にしているもの。

多くの非ネイティブがアルファベットから勉強を始めて、単語を覚えているからこその教え方です。

「cut it out は実際はこう読む」

的なことは、たとえばネイティブの3、4歳の子どもに教えることではありません。

この「覚える順番が逆現象」は世界中のイングリッシュラーナーの弊害になっています。

あらゆるところに蔓延し、誰もそれを問題視しません。

この文章に出会っただけでも、これがどういうことなのか、本質を考えてみてほしいです。

たとえば娘は、彼女が1、2歳のころから私の「カディダウ(やめて!)」を聞いて育っています。

なので、それを実際はcut it outと書くことをまだ知らないかもしれません。

「tがdに変わることがある」という法則的なことも知りません。

今は8歳になったので、「neverthelessっていう単語使える?」と聞いたら、

「使える使える。こうでしょ」と例を見せてくれます。

大人はeven thoughと使う場所が違うことに注目しますが、娘にとってはeven thoughはそれ、neverthelessはそれ、という感じです。

そもそも、「教える」とは何でしょうか?

教えるというのは、すでに上手くなった人が、「結果」を教えているような気がします。

エッセンシャル、本質を教えるのは、難しいのではないか。

本質は、自分で考え、見つけていくもの。

家では野球のボールの投げ方をずっと教えていますが、やはり「型」を教えることになってしまいます。

娘のフォームが違ったら、「違う、こう」という感じです。

「どうしてこのフォームなのか」という本質ではないような気がします。

コロナのせいにしていますが、娘はまだ習い事をしていません。

でも、まだなんとなく躊躇しています。

小学校1年生から3年生くらいまでは、やはり「教わる」のは苦手なのではないかと思っているからです。

教わるよりも、「一緒に生活しながら覚えていく」ことのほうがいいのではないかと。

この世代の子どもたちは、「なぜ」と日常のあらゆることを知りたがります。

「ドラゴン桜」で言っていたように、本質を知りたがります。

そして、親子の会話の中でいろんなことを学び、考えていくような気がします。

私がバイクの教習所で思ったのは、技術の結果を教えるというシステム。

そのとおりの型で走れば上手くいくのはわかるけれども、なぜなのかはわからずに卒業したりします。

大型免許だとバイクを持っている場合があるので、たっぷり一人で考え、実践する時間があっていいのですが、中型だとそれができません。

「これってどうしてだろうね」と一緒に考えるのが、学びであると仮定すると、英語も結果だけを学んでいくのはどうなのか、考え直さなくてはいけません。

このサイトでは子どもが母国語を学ぶように英語を学ぶことを主眼としていますが、たまに結果を出すこともあります。

結果のほうが、読む人のほうは楽しいはずです。答えなので。

答えのない、エッセンスを追究するほうは、文字にするのは難しい。

たとえば、リスニングでは

ネイティブになりきる=相手のすべてを物まねするように聴く

というのを何度も言っていますが、これの受け取り型は千差万別。

「こんなので上手くなるわけがない」と捉える人がいれば、「これはどういうことだろう? よくわからないが、自分で検証し、トライしてみよう」という人がいる。

バイクの中型免許は早くバイクに乗りたくて、詰め込み型にしがちですが、大型免許ならゆったりのんびりすべきです。

一回授業を受けたら、今度は家でじっくり考える。または実践する。

自分で考え、トライする時間が大事。

教習時間は12時間程度でも、それを20時間にも30時間にもすることができるのです。

英語では、話しかけられたり、誰かが話しているのを行動や表情とともに聞くことで、意味を推測していきます。

間違って解釈したとしても、いいのです。少しずつ修正していきます。

このステップから学ぶのが本質的な言語習得方法です。

それはたとえば、個室で会話することではありません。

実際の生活のシチュエーションですることです。

もしくは、映画やyoutubeなど。

まったくわからない音の洪水から始めるのが、母国語的な学ぶ順序で、考えながらトライしていくものです。