「アメリカのoはアと読む」を受け入れる 005
発音に関して結局のところ日本人が苦手なのは、喉を使わない母音の発音、リラックス母音です。一 …
ɔも特徴的です。
オの口でアを言うというものです。
たとえば
boss
はバースになります。
前にやったɑもoのスペルがアの方向性を持ちましたが、今回もアの方向性で同じです。
ただし、口の動きがオーです。
ɔはイギリスではオウで、ウオウターです。ボスはボウス。
また、イギリスでは口をすぼめるオはɒ。
stopは日本語と同じストップです。
要するにイギリスではoはオの方向性を持って、オとオウがあるということです。
日本語のウはʊ(リラックス母音)で、
ウッという発音が多く、
wood
cook
could
push
put
などで使います。
残念ながら、一通りではなく、
poorはプーア。はねる感じはありません。なので、発音記号は伸ばすuにすべきだと思うのですが、なぜかʊになっています。
pullはllがダークLのためか、ポーとなります。
wolfはウォーフ。これもダークLの影響です。
あまり娘と英語の母音の話をすることはないのだけど、「oをアって読むのは、小さい頃にプーさんの単語ブック見ながらやったんだよ」
と言うと、「覚えてる!」と喜んでいた。
「Hot(熱い)はアメリカだとハットだけど、日本のカタカナはイギリスから来てるからホットだよね」
と言うと、体を揺り動かして「こそばゆい! 気持ち悪い!」と騒ぎだした。
どうも、その英語とカタカナ英語の差がぞわぞわとするらしい。
「最近、学校でローマ字打ちするときに、ダの音をdaって打つのが凄く気持ち悪い」と言う。
なるほど。彼女にとって、ダの音はdoなのだ。
「だから」とローマ字で日本語にしたいときは、娘の場合、dokaraと打ちたい。
イギリス英語とローマ字打ちの親和性はあるのだけど、残念ながらアメリカ英語にはない。そもそもフランス語も入っているので、それほどローマ字に対応しているわけでもない。
私のような日本語で育った日本人にとっては、ダはdaであって、doではない。でも娘にとってdaはデェアみたいな音になってしまう。
この、oをアと読むアメリカ英語は、カタカナ英語に慣れた日本人にとってかなり大きな弊害となっている。
cottonはカッンーだが、日本語ではコットン。
boxはバックスだが、日本語ではボックス。
chopはチャップだが、チョップ。
clockはクラックだけど、クラック。
娘は特に、ボックスとドールが気持ち悪いらしい。
ドールは英語発音だとダーオ。
「ドールって何なの!」と叫んでいた。
iPadをいつまでも使いこなせない年配の人がいて、同時に、すぐに使いこなす幼児がいます。この差はなんでしょう?
年配の人は、「このボタンおしていいの?」「これはどうやってやればいいの?」と、すぐに確認を取ってきます。
これは、しっかり取り扱い説明書を読んで、やり方をわかった上で使いたいということです。
知らずにボタンをタップするのが怖いのです。
一方、幼児は恐れ知らず。
すぐにさわります。
さわって、動きを知り、またさわります。
その繰り返しで覚えていきます。
小学校でアメリカに留学した日本人の子供は、そういった環境に置かれます。文法の勉強をしていないのに、いきなり実践の場に放り出され、少しずつ使いながら、「あ、通じた」という成功体験を得て、使うようになります。
もし、英語の文法の勉強をして、一度も使っていないのなら、取り扱い説明書を読んで、「間違いをしたくない」という状況です。
かといって、日本人には「英語で自分を試せる」という環境はほとんどありません。英会話学校は結局勉強の場なので、ちょっと違うのです。
その対策はあります。
日本人が苦手な音のひとつに、鼻音があると思います。
特に、NとMで行われるものです。
日本人の「ん」で書かれた発音には数種類あり、私たちはそれを意識することなく使い分けています。
看板の「かん」部分の「ん」は何なのかとか、新聞の「しん」部分の「ん」は何なのかとかを意識しないのです。
一方、英語や韓国語にはNやMに対して違いをはっきりさせています。
日本人にとってMは「まみむめも」でしかなく、日本語の「ん」であるという意識がないので、Mの発音時に唇で出す音だけになってしまったりします。
たしかに、英語の「マット」とか、「ミリオン」といった言葉に使われるMは日本語の「まみむめも」と同類です。
ですが、
embassy
とか、
impression
といったMは、日本語の「ん」に当たるMです。
リスニングにおいてシンクロができるようになったら、次に準備するのは「どの時点でも理解する」という方法です。ここでは「一語一語」と読んでいますが、文のどの段階においても、理解はしているという状況を作ります。
まず最初に、一つひとつの言葉の意味を頭にぶつけるように、感じることが大事です。
Should we take him with us?
という文があれば、
Should
と相手が言った時点で、
Should単体の意味をしっかり感じとります。
次にweが来たら、weの意味をしっかり受け取るのです。
この単純なことを、できなくさせるのが例文暗記英語です。
つまり、多くの日本人が採用している方式です。
例文として暗記してしまうと、ある程度の数の英単語に対して、日本語の訳があるので、英単語一つひとつの意味をあまり理解しようとしません。
特に会話では、日本語の訳のほうで理解するので、英文はただの音になります。
no matter howの回でやったように、例文暗記ではno matter how は、「だとしても」のような日本語でしかないのです。
「真似するように聞く」というのは簡単なようで簡単ではありません。
大人というのは言葉を素直に聞くのが、本当に難しいからです。
なので、この言葉、自分で言った言葉ですが、自分で解析をしていました。
細かく見ると一体どういうことなのか。知りたかったからです。
まず、優先順位です。今後も解釈が変わるかもしれませんが、現在のところこういう感じです。
次に来る音(単語)を聞く準備。
→同時に発音される音を聞いていく
※注意点 単語もしくはチャンクの最後まで音を聞く
→音を聴き終わって、瞬時にイメージが頭に入ってくる(音を知らない場合は入ってこない)
→単語もしくはチャンクの意味を理解した上で、次に来る音を聞く準備をする
という感じです。
これがたとえば、音の最後まで聞くというところにこだわって、次の準備に意識がいかないと、後手後手になってうまくいきません。
あくまで意識は次の音で、同時にシンクロさせていくことが大事です。
真似しているのと同じなのです。
これは、「ただシンクロさせて」だとうまくいくことが多いです。
しかし、相手が言っていることを理解するのは最初は難しく、そのためやめてしまう可能性があります。
また、発音の勉強で、「次の音に集中してきいて」というのを試しても同じようなプロセスになります。
いずれにしろ、相手の言っていることが理解できず、翻訳する時間もないので、挫折します。
まず、「英語で相手の言っていることを理解しました。でも日本語には翻訳していないし、翻訳は苦手なのでできません」と開きなおることです。
これは、以前にも言った「外国人になりきる」という姿勢です。
そうしないと、いつまでもネイティブと同じペースで発音したり聞いたりできません。また、最終的に日本語におとしこまないとすっきりしない、理解できないという状況になってしまいます。
実際は、どの国の言語も、「今の単語があって、それに対応した次の言葉がある」という関係性の連続で、それだけで成り立っています。
「今の」と言ったあとに「単語」と繋げる関係性が日本語にはあり、英語では「take」と言ったあとに「it」と繋げる関係性があるだけです。
そういった語順のみで行う理解は別の機会にして、そういったネイティブのリズムでないと、リスニングは基本的に難しく、日本人の多くが極めている暗記例文英語である程度のところまではいけるという感じです。
そう考えると同時通訳の人のやっていることは別次元のテクニックであり、プロです。
私たちは日本語におとしこむ必要はありません。英語で考え、英語で話し、英語で理解すればいいだけです。
なので、レベルとしては一番下です。
暗記例文英語のほうがレベルは高いです。これには翻訳も伴っているからです。
翻訳ができるというのは仕事でも使えるテクニックであり、だからこそ多くの日本人がトライしているものです。また、学校の試験やTOEICなどもすべて基本は日本語ができないと成り立たないものになっています。
ここでやろうとしてるのは、1歳の子でも2歳の子でもやっていることで、本当ならすぐできるはずです。
ですが、じゃあ英語を話そうといっても、まず日本語で黙って考えてから話すので、結局暗記例文英語になります。
話すことが決まっていないときから、たとえばit’sとかIとか、英語から組み立てることが大事です。これができないと、ネイティブを相手に暮らしたとき、ずっと黙っている時間が増えていくことになります。
even though は「なのに」の訳がぴったりですが、これもいちいち「なのに」を当てる …
no matter how は、日本人としては「~だとしても」と覚えます。 No matt …
Canがどうのというよりは、be able toを読み解くほうが早いかもしれません。
be able toは、客観的事実に基づいた、可能か可能でないかです。
それを前提に、一時的で状況的な可能(ここをクリアすればここは可能になる)と、特殊能力の可能(ドラムが叩ける、マジックができるなど)があります。
日本語ではまさに「可能かどうか」を、客観的事実に基づいて判断しなくてはなりません。
主語は人になります。
また、助動詞と組み合わせる必要があるときに使います。
一時的で状況的な可能というのは、「何時何分までに空港に着けるかどうか」とか、「喉の手術をしたので声は今出せない」といったものです。
特殊能力の可能は、誰でもできるわけじゃない技術を習得したものに対して、「できる」と言うもので、一時的ではありません。be able toは「一時的」という意味合いが強いのは確かで、その意味合いがないのがこの特殊能力です。
能力的なことを聞かれる場合はcanの備わるものと、be able to の特殊能力があるということになります。質問文の場合の返答は、どちらでも可能です。
be able toは依頼文には使えません。
努力と時間がかかったものが「できた!」場合はまさにwas able toです。
過去の返答はcouldn’tとwasn’t able toに違いはありません。
be able toをしっかり把握した上で、canです。
canの「備わったもの(能力)」は、一時的ではないものです。
比較的みんなができること。それが備わっているかどうかです。
水泳や読み書きをイメージします。
一度習得すると、いつでもできるものです。
be able toの特殊能力の可能(ドラムが叩ける、マジックができるなど)も、習得すればいつでもできるので、境界線は曖昧です。
canは依頼なのか、能力なのか、という違いがあります。
「英語を話せる?」と言う場合に、「この人は話せるけど、この場で今話してくれる?」という依頼なのか、「日本人だけど英語を習得して話すことができますか?」という能力なのかという2パターンがあります。
特長として、依頼であればcanオンリー、後者はbe able toもOKとなります。
ただ、質問であればcanが一般的と考えて、答えはどちらでもと考えて間違いありません。
能力の返答はcanでもbe able toでもよく、canが「できます」で、be able toが「可能です」という訳はぴったりだと思います。
テーブルのコップを取ることが、「できる?」という、誰でもできることに対する依頼に対して、「できた!」と答えることはあまりありません。
「開かない蓋を、1分以内に開けることは可能?」は状況的なのでbe able to系ですが、そういうものはアンサーもI was able to do it! になります。
結果として、過去の事柄として、実際に「できた」ことはとにかくbe able toです。
couldは、過去に「いつでもできた(やろうと思えば)」という意味をとるので、とにかく使えません。
be able toの「できた!」は一回きりのもの。努力や時間を使った結果の場合には必ずbe able toになります。
couldの「やろうと思えばできた」はまさに意思、主観的で、現在形も同じです。
You can lie down.
(横たわりたかったら)横たわれるよ。
となります。
状況的に、スペースがあるので…は、
You are able to lie down.
です。
couldは過去に「水泳ができた」でも使われるので、「いつでもできた(やろうと思えば)」と衝突します。「彼より早く泳げた」「当時は対岸まで泳げた」というニュアンスもcouldです。
いずれも「備わったもの」の過去ですね。
couldは未来に「できるだろう」でも多く使われるので、ここで紹介しただけでも3つの使い方があります。
若い頃に油絵を学んでいて、最初に16色の絵の具で描いていました。
上手くいかないと、先生はこう言いました。
「4色だけで描いたほうがいい」
それはつまり、4色だけで、なんとか色を出そうとすることで、混ぜたり、並べたり工夫をして、結果的に鮮やかないい絵になるということでした。
すでに絵の具師が作った色をキャンバスにのせるのは簡単で、実際に見た風景の色を、その色に置き換えるだけです。それに対しては、鑑賞者に対しても大した感想を抱かせません。
言語、特に会話において、これとまったく同じことが起こります。
よく、生徒たちと話していて、英語だけで会話するときに、「えーっと、英語でなんて言うんだっけ?」となる時があります。
これは、まさに、用意されている絵の具を探している状態です。
的確に言い当てる、定型文や単語を探しているのです。
私は英検にまったく興味がありませんが、進学や就職に必要になる場合があるので、うちの娘もそのうち受けるかもしれません。
先日、1級の問題を初めて見てみました。
すると、見慣れない単語がずらりと並んでいました。
まさに、「的確に言い当てる単語」です。
「いったい、いつどこで使うのだろう?????」と思うものばかり。
私が普段読んでいる英語の本には絶対に出てこないものばかり。
ましてや、英会話で使うとお互いにチンプンカンプンになること間違いなしです。
そして、こういったものを覚えるために使う時間は膨大になるでしょう。
この難しい単語から、それぞれ自分の表現にあったものをピックアップし、口に出す。
はい、おしまい。
です。
16色で描いた絵の完成です。
そういった会話や文は、つまらないものになるということです。
英語ではBig Wordといって、嫌がられます。
時々、私は「TOEICで高得点」と自慢している人がいますが、そういう人に多い、難しい単語を使って英会話をしようとする人たち。本当に恥ずかしいです。
NYに留学していた友人と、クイーンズのアパートで20代のはじめのころ、こんな会話をしました。
「大学で同じような留学生がいるけど、英語の知識がそんなになくても、結局中身のある会話をする人が尊敬されてる。俺はダメだ」
彼は必死に頑張って英語の勉強をして、日本式の知識があったけど、英会話となると壁があったようです。
この「中身のある会話」というのは、人間性や言語と関係ない知識のことだけではありません。
一体、何が中身のある会話にするのでしょうか。
4色の絵の具というのは、言語で言うと、例えばtake、get、have, giveといった動詞です。
あくまで例であって、言語なのでこれが10個でも構いません。
要は、こういった誰でもわかる単語を使って、わからない表現や単語も含めて、なんとか表現することで、自分だけの絵ができるというわけです。
それが「中身のある会話」として評価されます。
なぜかというと、そうすることで、自分なりのユーモアや世界観が表現されるからです。
ネイティブの人では思いつかないような詩的なものになるかもしれません。
それを、「少し面白く表現してみよう」くらいの気持ちでやるのです。
相手もくすっと笑っていいのです。
「正しい言い方がきっとあるのに、間違ったらどうしよう」と思うのが普通ですが、「少し面白く表現してみよう」と思うことで、その壁も乗り越えられます。
よくある、「こういう言い方はネイティブはしない」とかいうNG集がありますが、そんなものは気にする必要ありません。失敗して、自分で学べばいいのです。
日本の英語のテストは、まさに「こういう言い方はネイティブはしない」と脅すやり方です。人を臆病にさせます。
本当に、それがアウトです。
「感動した」と言いたいときに、
hit my heart
でも、
got my heart
でも、
なんでもいいのです。自分のイメージで考えるだけ。
「伝えよう」という気持ちが大事で、簡単な言葉だからこそ、伝わるだろうという思いです。難しい言葉ひとつで言い切って、「え! 知らないの?」と言う態度、許せません。
正直、そういった悪い方向に日本の英語本も、Youtubeも流れているように見えます。
そう思ったら、さっさとその世界から離れたほうがいいです。
簡単な言葉を駆使して、自分なりに表現するのは、そういった勉強よりずっと楽しいです。
アメリカ人が1歳から5歳くらいの子に話しかけるとき、Big Wordを使うことはありません。噛み砕いて、わかりやすく、何度も言い換えます。
相手が理解することが大事だからです。
「英語ではなんというでしょうか?」
という言葉の呪縛から解放されるかどうか。これは大事なことです。
自分だけの表現を掴めれば、英語は単にクリエイティブな遊びだと気づくことができます。