ブーンブーンとズーンズーン。
正月休み、晴れた日に家族でピクニックに行った。そこは飛行場に隣接した公園で、小さな丘からは …
私はクルマが好きだが、どうしても超えられないジレンマがある。クルマが好きだからクルマを購入するが、そのクルマで運転できるのは、日本国内だけだ。
世界中を同じ愛車で走りたいと思っても、基本的には走ることができない。
私が冒険家で、確固たる意思を持って、その冒険にすべてを捧げるなら別だ。
しかし、東京で仕事をして、たまの休暇にクルマで旅行するという使い方をする場合に、私はクルマで国の外を出ることはできない。
もし海外でクルマを使う場合はレンタカーだし、自分の馴染んだクルマを選ぶことはできないのだ。
一方で、アメリカ大陸でクルマを購入した人は、アルゼンチンまで行ける。アラスカまで行ける。
ヨーロッパの人はシェンゲン条約の国々であれば、気軽に国境を愛車で越えることができる。
これは、大陸に生まれた人と島国に生まれた人の大きな差であると思う。
もし将来、九州と韓国が橋で繋がり、北海道とサハリン、さらに大陸が結ばれたら、事情は変わる。
しかし、それが行われない以上、これは運命なのだ。私には変えられない運命。
インターネットで世界のニュースを英語で読むことができるようになったが、はたして直接読んでいる人は日本にどれだけいるのだろう。私自身、英語のニュースを翻訳してブログで紹介していたので、一時期は熱心にチェックしていたが、今は少し距離を置いている。もしチェックを続けていれば、海外のゴシップも楽しめると思うが、少し離れるとまったく興味が薄れる。なのに、日本のゴシップにはすぐ心が動かされる。なぜだろう。
私は英語を読むことができるが、わざわざ好んでニュースサイトを読みたいとは思わない。日本語に翻訳されているほうがもちろん心地良い。
日々更新されるニュースには、人々の関心が詰まっている。それが積み重なり、国の、国民の共通認識となっていく。
それが共有されないと、「同じ国民」という意識も薄れていく。
若い頃に2年間ほど沖縄の離島で暮らしていて、そのときにその感覚を味わった。まだその島にインターネットはなく、私は携帯も持っていなかった。テレビはNHKと民放2局のみ。いつも観ていた番組のほとんどがない。
その代わり、島の事情には詳しくなり、そのローカリズムを存分に楽しんだ。ゴシップだってある。
そしてその後、沖縄本島の那覇に引っ越したときに、一気に大きなものと繋がった気がした。さらに本土に戻ってきたときはもっと大きなものと繋がった。
日本人は日本に住む限り、世界との距離は、その当時の離島と本島、本島と本土と同じような距離があるのだ。
日本の朝の報道番組で世界のニュースはほとんど流れないし、誰も英語サイトをチェックしない。
英語を勉強して話せるようになった人も、読めるようになった人も、仕事で必要がない限り、それほどチェックはしない。
日本人は日本のニュースが好きで、ゴシップが好きなのだ。
グローバルな人材になりたいと思っても、住んでいる場所で人の運命や人生、生き方はほぼ決まるのだ。
日本に住めば日本語を読むのが楽で、話すのも聴くのも楽。お笑いは楽しいし、本を読むのも楽しい。
ネットニュースも日本語ならスラスラ読める。
仕事だって日本語なら能力をフルに発揮できる。
そういった日本語能力は素晴らしいことで、人生を謳歌する最大の要因でもある。
ただ、未来の日本人には、島国だからこその進化の余地が残されている。
それは、英語を外国語だと思わないように育つことだ。
親が英語圏の場合、たとえ日本でも子どもは英語を母国語として育つ。同時に日本語も覚えていく。
日本語の学校もしくはインターナショナルスクールという環境によって、どちらかに偏ったりするのを整えながら、バランスをとって育っていく。
子どもが英語を母国語としてスムーズに受け入れた場合、アニメや本も英語で接し、また日本語でも接する。
将来はサイトニュースを英語でもストレスなく読んで接することができるし、日本の番組も楽しめる。
英語の友人がいなくても、仕事相手がいなくても、海外に旅行することがなくても、英語は使う。
英会話の学校にも日本語会話の学校にも通うことなく、ただ使う。
その脳内が、グローバルであり、フラットであり、進化と言えるのだ。人間の脳の進化だ。
今は日本人の大人にとって、英語の幼児教育は「日本語の劣化」つまり脳の劣化を連想させるが、0歳から同時に2カ国語に接する子どもは見事に使い分けて学んでいく。
大人が思うほど能力は低くないのだ。能力が低いと思うのは、大人が英語習得に苦労したからだと断言できる。
たとえ日本人の両親でも、0歳からの英語と日本語の母国語化はできる。
幼児が使う簡単な英語から、日本人の親が一緒に英語を学んでいくのだ。
そのためには「英語は難しい」という思い込みを捨て、ただ子どもが英語でコミュニケーションをとる機会を家庭内に作ってあげることだ。
子どもはテレビやビデオで英語を勝手に学んでいくし、日本語はもう一人の親やお爺さんお母さん、幼稚園などで学んでいく。
英語が得意ではない親が英語を子どもに教える必要はない。間違っていてもなんとか意思疎通すればいい。日本語でもそうだから。
英語を得意としない大人たちは英語でコンテンツを消費しようとはしない。かえって苦痛だからだ。
しかし、2カ国語を母国語とした子どもたちは、勝手に2言語でコンテンツを猛烈に消費する。
そうやって、あとは勝手に言葉を覚えていく。そのうち親に教えてくれるようになるだろう。
その問いは、クルマの例ととればイエスだ。
しかし、この極東の島国に閉じこもり、グローバルな脳に進化することはできる。
それは、「英単語をたくさん覚えました」「文法をたくさん理解しています」ということではない。
「英語を訳すのが得意です」
ということでもない。
自分が興味を持つコンテンツを、そのもう一つの言語で楽しめるかどうかということだ。
英語で本を読むときに、訳さずに、英語の順通りにただ単語を読んで理解し、楽しめるかどうか。
Youtubeで英語の動画をみて、心から楽しめるかどうかだ。
英語のバラエティ番組を字幕なしで笑えたら、あなたは脳はフラット化に少しだけ近づいている。
娘が妻に、「手でお腹をさわったら、手が通り抜けて…」と生まれたときの話をしていたらしく、それを
「アリュージャン」
と表現していた。
妻は何だろうと思い、意味を調べたらフランス語で「金」という意味だったらしい。
翌日、娘と私が二人で歩いていると、魔法の話をし始めた。
そのとき娘が、「アリュージャン」と確かにいった。
それは、幻想、イリュージョンの意味だった。
妻は帰ってきて、娘に
「アリュージャンじゃないよ、イリュージョンでしょ」と言った。
私はすかさずiPhoneでillusionを調べて妻に聴かせた。
発音は
アリュージャン
妻は「イリュージョンじゃないのか…」とショックを受けていたが、厳密に言うと、最初のアは「イとエの中間」と呼ばれる曖昧なもので、イとはっきり発音する人もいる。
アとはっきり発音するとAllusion(まやかし)という単語もあるので、あくまで弱いアだ。
ジャンの部分に関しても同じで、日本人にはジャンにもジョンにも聴き取れる、まさに中間点。
なので、アリュージャンのときもあれば、アリュージョンだったり、イリュージャンだったり、イリュージョンだったりするのだ。
全部を曖昧にすると、それっぽく聞こえるのは間違いない。
娘と一緒に遊んでいると、娘が母親に呼ばれた。
すると、遊んでいた人形を指さして
Keep an eye on her.
と言った。
これは、「子どもをみててね」という意味で、私の好きな映画『ラッキーガール』で出てくる言葉。
叔母マーサが仕事に出かけるときに、孫の面倒をみるように年上の甥にお願いするシーン。
叔母マーサ Stay out of trouble. Katy(孫の名前), mind your cousin.
甥 I’ll keep an eye on her.
という感じだ。
Mindというのは「気をつける」とか、「注意する」という感じで使われるが、この場合は「世話をする」「守る」「言うことをきく」「気に掛ける」というのがあり、年上のいとこが次に来ているので、「言うことをきいてね」になる。
私が娘に「Keep an eye on her.」と使う機会はないので、娘はどこからか、勝手に覚えたようだ。
ネイティブのように考え、ネイティブのように話す。
英会話学習をしている人なら、親の小言のように何度も耳にしているはず。
でも、実際に実践している人は少ない。
大抵の人は、頭の中で一文を考えてから、一気に言う、あの抑揚のない日本人英語だ。
どうして出来ないかというと、原因はいろいろある。
まず、
「自分が言う英語が完成していないのに、言葉を出せない」
ということ。でも日本語も英語も、言葉は話しながら考えるのが普通だ。
次に、「英語の順番で考えるということが、あまりにも日本語の順と違いすぎる」ということ。
この違いの大きさに、多くの人が気づいていない。
家の中に「自分の家」を椅子で作って遊んでいた娘。
How are you?
ときいたら、
Better than Okay!
と返してきた。
直訳すると「オーケーよりいいよ」だが、個人的に聴いたことがない言い回しだったので驚いた。
似た表現にBetter than everや、Never been betterがあるが、そういう表現は本やネットにでていて、日本人ならそういう中から選ぼうとする。そこになければ、使えないと考える。
Better than Okay! は、娘がどこかで聴いたのか。それとも、自分で作ったのか。
言語習得はやっぱりミステリアス。
It doesn’t make me feel like a cat. と淀 …
最近の本当によくしゃべる。しゃべりたくて仕方が無いという感じだ。
そのなかでたくさんの驚きがある。
そんな表現を自然にできるのかというもの。
前にも出てきたが、not at allも私の口からそんなに頻繁に出てこないので驚く。
娘も口に出したことはあったが、私の前では久しぶりに口にした。
ヒーローが戦ったり死んだりする遊びをしていた夜のこと。
I’m not dead at all!
が出たのだ。
発音もアイムナッデッダローと自然。
昨日の帰りの車では、最近めまいが多いママについて
I want to make her feel better.
タコについて説明したくて
the most biggest seafood.
比較級の話をしたばかりだが、最上級も自然と使っている。
they look great.
というのも気になった。it looksと言うときもあるのに、theyではlookになる。
もし、これらの言い方を私がしつこく教えていれば驚きはないのかもしれないが、教えていないから驚くのだ。
彼女にはネイティブのティーチャーも母親も父親もいない。
英語のクラスも英語の保育園も幼稚園もない。
これから子どもに英語を習得させたいと考えている人に、私の実体験による基本的な考え方を紹介したい。
まず、どうして0歳から英語で話しかけるのかについて。
言語は、音だ。
最初に文字があって、読み方があるのではない。
もしその順序を間違えてしまうと、聴き取りができなくなってしまう。
意味のわからないときに、音だけ聴くというのは大変重要な要素で、そのおかげで音を正確に聞き取ることができるようになるのだ。
0歳から1歳までは、日本人ならひたすら親の日本語を意味をわからず聞き続ける。
意味がわからなくても、同じ音を理解できるようになる。でも意味がわからないから、言葉として出せる記憶ではない。
音として、「聴いたことがある」というレベルになるのだ。
二人でスターウォーズの遊びをしていて、娘がダース・ベイダー、私がボスになった。 彼女はスタ …
事情があって一週間ほど娘と会えず、先日久しぶりの再開を果たした。
入院していた私にいろいろと訊ねてくる娘。久しぶりの発音が素晴らしくて驚いた。
Did you get a shot? (注射したの?)
のget a の部分のゲラという発音がナチュラルすぎる。
あとは疲れている私に気をつかって、
Let’s take a brake.(ちょっと休もう!)
最初に抱きしめて娘が言った言葉は
I missed you. (寂しかった)
だったが、しばらくして家に着く前に言ったのが、
I missed talking with you.
私はI miss you. といった3文字でいつも完結するので、そのあとに言葉が続くと思っていない。
「パパと話したかった…」という意味なのはすぐわかったが、正しい使い方なのかはわからない。
あとで調べると、そういう使い方があるという。
I missed talking with you.
私が入院中、母親に「パパと英語で話したい」とずっと言っていたという。
I missed talking with you, too.
ある商業施設で娘が母親と一緒にトイレに行っていて、帰ってくると抱きついてきて
It’s great to see you!
と言った。
大げさだなぁと思いつつ、It’s great の部分の感情の込め方と、自然な使い方に関心した。
親子感では普段、もちろんNice to meet you もIt’s nice to see you も使わないので、娘はいつものことながらアニメから勝手に覚えたらしい。
日本人だと
「It’s great to see you! は久しぶりに友人とあったときに使う」
などと用例が出ていて、そう言われたらそれ以外のときにはなるべく使わないようにしようと思ってしまうが、娘には通じない。
でも、よく考えてみたらIt’s great to see youの構造は簡単だ。
It’s great の意味はもちろん娘はわかる。to see you 「あなたに会って」もわかる。
だからそれを繋げただけかもしれない。「会えてすごく嬉しい!」
だからと言って、私はネイティブじゃないから、そういった使い方が正しいのか相変わらず判定できない。
でも、よく言う「生きた英語」的なものを娘から感じてしまうのはなぜだろう。
4月13日 Look at what I found!
朝、目覚めてベッドで娘と遊んでいたら、クレープのおもちゃでバナナを手にとって
Look at I got! (私が手に入れたの見て!)
と言った。
これは、アニメでソフィアが
Look at what I found! (私が見つけたの見て!)
と言った台詞の応用だと思う。
アニメでは早くてwhatがほぼ聴き取れないのだが、娘も省略していた。省略していいかどうかと言えば、省略しないほうがいいような気がする。ただ、foundをgotにするのはナチュラルな応用で素敵だ。
個人的には、ソフィアがこの台詞を言ったとき、atのあとのwhatって新鮮だなと思った。Look what I foundじゃないのか…と。
ところで、
「みつけたもの」と言いたいとき、
what I found となるが、Lookのときには使ってなくても、他のときにはこの使い方をする。
文法、関係代名詞という大人の持つ感覚は一切なくて、ただそれ以外に言い方がないから使っているはずだ。
Whoの関係代名詞を使うか使わないかと言うと、最近使っている。
~ who scored ~
英文の内容は忘れてしまったが、「点を取る人」という意味で使っていた。
たとえば I saw someone who scored in that game. こんな感じだったと思う。
個人的な感想で言えば、what I foundは感覚的に使えても、whoの関係代名詞は文章でなら多く使うが、話しているときにはあまり使わない。
中学から英語を始めた私にとっては、どうもナチュラルに使えないのだ。
たとえば上の文の場合、
I saw someone. He scored in that game. 誰かを観たよ。彼はあの試合で点を入れたね。
となってしまう。当然、ナチュラルではない。でも、一時期関係代名詞でこんがらがった経験があるせいか、上手には使えない。
I saw someone who scored in that game.
「あの試合で点をとった誰かを観たよ」を、I saw から初めて、someoneと来て、次にwhoを使うかどうか。
それは会話の最中で選択していくもので、日本語の語順が染みついている私には、someoneのあとに、その説明文が来る感じがしっくり来ない。
書くときにはそんなことは気にしなくていいから問題ない。でも、実際に話していると当然違う。
日本人がしっくりくるのは、「関係代名詞の継続用法」というやつだ。
I saw someone, who scored in that game.
この場合は、コンマの前で一度意味は終わる。
「誰かを観たよ」一拍おいて、「その人はあの試合で点を撮ったよ」なので、先に話したI saw someone. He scored in that game. と似ている。
話し方でどこが違うかと言えば、コンマの一拍なので、そうしたくなければとりあえずsomeone whoと一気に言わなければいけない。
そういう使い方を脳がしてくれるかどうか。そこが難しい。
そして、それをどうして4歳の娘が普通に使うのか。それは謎のままだ。