Brutality の伸ばすところ、わかりますか?
「カタカナ英語」は、英単語の特長である、「伸ばす場所がある」というところに着目したカテゴリ …
これは英語の語順を身につけるためのカテゴリ。
ゲームのように、ただ順番に聴いたり読んだりして、日本語の順番に置き換えずに終わらせるものだ。
今日は
River
比較的簡単な語順になっている。
A River is a large amount of fresh water flowing continuously in a long line across land, such as the Amazon or the Nile.
これを日本語に訳す前に、順番に読む。
A River is
a large amount of fresh water
flowing continuously
in a long line across land,
such as the Amazon or the Nile.
今回は日本語も使わない。
川の説明なのに、長いラインという言葉が後半に来るのが英語らしくて面白い。
最初に来ているものが大事だとすると、
a large amount of fresh water
が要するに川だと言うのだ。
ではamountとは何か、知っている人も多いとは思うが、辞書で調べてみよう。
An amount of something is how much of it you have, need, or get.
ということで、ここは日本語で言うと「量」になる。
「川」=「多くの量のフレッシュウォーター」、たしかにそうだけども、それだけだと説明が足りないので、
flowing以下が必要となる。
じゃあ海はどうなのかというと、試しに作ってみると
A sea is a large amount of salty water flowing continuously among continents.
というふうに、無理矢理同じ文型とflowingを使って作るとこうなる。
先に「○○は○○だ」と言ってしまう感覚には、慣れるしかない。
日本人としては、「川とは、土地の上を流れる水のことです」という感じで、水よりも先に「流れる」と言いたい。
もうそういう頭の構造になっている。
でも英語は違うのだ。
先に「水」と言う。
英語の語順には、慣れるしかない。
※『言葉を選ぶ「根拠」を変える』のマザータングバージョンです
小さな子どもが母国語を覚えるときに、当然、もう一つの言語と比較したりしない。
でも英語を学習中の大人は、すぐに「日本語だとなんて言うんだっけ?」となる。
日本人にとっての母国語として日本語を考えたときに、「そうだよね」とか「まあね」「いや別に」という言葉を外国語に置き換えたりはしない。日本語のままで完結する。
「こういう状況で、こう言いたいときに、こう言う」というのを把握していて、意味を考えたりもしない。
英語も同じで、
Not really.
と答えたときに、それが日本語だと何なのかとか、reallyの意味とかを考えたりしない。
状況や会話のパターンがあって、「そのときにはこれを使う」という方式が頭にあるから使う。
それは、日本語で書かれた英語の本から教わったものではなくて、「同じような状況で使っている人を見たことがある」という経験から来る。
理屈や文法ではなく、まるごと、「このときはこう」というシンプルな経験則から使うのだ。
発音もイントネーションも含めて、「見た」という経験がもっとも強い根拠となる。だから、それを文法的に否定されても、ちょっとやそっとじゃ譲れない。
そうやって母国語はできあがっていく。
推測の積み重ねだ。
経験と推測の分厚さが言語習得になり、話せる量になるので、日本語にどう訳すかという勉強ばかりしていても、一向に話せない。
根拠に欠けているからだ。
自信がない。
この圧倒的な違いに気づいて、目覚めて、取り組めるかどうか。
それが母国語として言語を習得する分かれ目となる。
まず初期に、短い言い方をまるごと覚える。その後は、応用(一語一語)があるが、ここでは触れない。
「推測だけで言語を習得するなんて馬鹿げてる」
わからない言葉があったら、すぐ調べて意味を知りたい。
そういう病気にかかっているなら、この章を読んで治療してもらいたい。
わからなくていいのだ。
たとえば英語で語る日常生活のYoutubeがあるとして、それがシンプルなものであれば、どんどん推測できる。
でも、ニュースのように画面に向かって語りかけるようなものだと、それが出来ない。
だからわからなくて当然。
スタートは、日常の会話から始まる。
英語には大きな語順でWho, What, How, Where, When, Whyというものがあり、この語順で理解していくのも必須となる。
次の文で見てみよう。
Indians along the Mississippi River raised crops, in addition to hunting buffalo and other animals. (「シンプルな英語で話すアメリカ史」より)
Indians along the Mississippi RiverがWhoで、
raised cropsがWhat。
語順的にはこれで終わりだが、文にはin addition toという前置詞以下がある。
そのままの順序で読むと、
「ミシシッピ川沿いのインディアンは、作物を育てた。バッファローや他のアニマルを刈るのに加えて」
となるので、一度訳すと日本語なら、「「ミシシッピ川沿いのインディアンは、バッファローや他のアニマルを刈るのに加えて作物を育てた」となるのがわかる。
でも、一語一語でやってはいけない。
もし
In addition to hunting buffalo and other animals, Indians along the Mississippi River raised crops.
としてくれれば日本語に近くていいのにと思うが、英語では英語の親しみやすい並べ方がある。
日本人としては、順番で読むとこんな感じになるときもある。
「ミシシッピ川沿いのインディアンは作物を育てた。加えて、バッファローや他の動物を刈った」
この構造の違いは本当に大きい。
口語ですらすらと、「AはBをした。○○に加えて」という順序で言えるのか。
結局、これもトレーニングするしかない。何度も使って、この順序に慣れ親しむのだ。
「○○は○○だった。しかし、○○は○○だった」という言い方をしたいときはbutを使うが、howeverも使う。
だけどもその場合、年号が先に来るときもある。
The American whaling industry provided oil for the lamps. By the late 1850s, however, whale oil was too expensive. (「シンプルな英語で読むアメリカ史」より)
「アメリカの捕鯨会社は、ランプためのオイルを供給していた」というのが最初の文で、次に「1850年の後半まで」というWhenが来る。
日本人としては、「1850年の後半まで」のあとに、「しかし」とか「しかしながら」は来ない。
でも英語は違う。
「1850年の後半までに、しかしながら、鯨のオイルはとても高価だった」と来る。
「アメリカの捕鯨会社は、ランプためのオイルを供給していた。1850年の後半まで、しかしながら、鯨のオイルはとても高価だった」という流れになり、違和感は凄い。
日本語なら、
「アメリカの捕鯨会社は、ランプためのオイルを供給していた。しかしながら、1850年の後半まで、鯨のオイルはとても高価だった」
という感じで、必ず「しかしながら」は文頭に来る。
一語一語で読むと、この違和感に慣れなくてはならない。翻訳なら日本語向けに順序を変えてすっきりするが、英語を英語の順番で読むときにはそうはいかない。
そして、これに慣れることが聴き取りの時に非常に役に立つ。リスニングのときに違和感を感じている暇はないのだ。
娘とジョークの動画を観ていたら、 Why didn’t the skeleto …
慣れてくると、アクセントだけに集中して聴くようになるかもしれません。
結果的には同じなので、それほど深く考える必要はありません。
この溜めの話を娘にすると、全部の単語をたっぷり溜めて話し出したので、「それだけ溜めるのは重要な言葉の前だけね」と注意しなくてはなりませんでした。
たしかに、文の中で大事な言葉以外は、かなりさらっと塊でスルーすることが多いです。
かといって、アクセントがないのかといえば、ある。
すべてに溜めを使って話すときもある。
この感覚はとにかく意識して聴くしかないですね。
長い単語が連なると、長い間アクセントがない場合があります。
たとえば
Youtubeでも映画でも、実際にネイティブを前にした会話でも、表情を見ていると「溜め」が分かるのでリスニングがしやすくなります。
なので、初心者にとって英語の電話は非常に難しいのです。
私自身、仕事上、国際電話を使う機会が多かったのですが、最初は心臓が飛び出るほど緊張しました。そして、相手が何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。
慣れてくると、表情を見なくても音から「溜め」が分かってきますが、赤んぼうや幼児は会話をする相手の顔をじーっと見るでしょう。そのおかげで、「溜め」がわかりやすくなります。
何度もお伝えしている通り、娘は私から一度も聞いたことがない言葉を突然使い出す。
今日の学校帰りに言った言葉は、
Now that I think of it,
「考えてみればさあ、保育園のあの小さい子がもう多きくなって話せるようになってるはずだよね。会いたい!」
「考えてみると」という意味のこの言葉。もちろん知ってはいるけれども、使ったことはない。
どこから覚えたのか聞いてみると、チャド&ヴィーという大好きなYoutuberが使っていたらしい。
妻がくだらないので見せたくないと主張しているYoutuberである!
ネイティブが世界の人に向けて英語を教える場合に、たとえば
「neverthelessはこう使う」という感じで教えます。
もしくは、
cut it outは繋がって、カディダウという音になるとか、時にtはdの音になるとか。
こういったものは、文字や単語から勉強した人を相手にしているもの。
多くの非ネイティブがアルファベットから勉強を始めて、単語を覚えているからこその教え方です。
「cut it out は実際はこう読む」
的なことは、たとえばネイティブの3、4歳の子どもに教えることではありません。
この「覚える順番が逆現象」は世界中のイングリッシュラーナーの弊害になっています。
あらゆるところに蔓延し、誰もそれを問題視しません。
この文章に出会っただけでも、これがどういうことなのか、本質を考えてみてほしいです。
たとえば娘は、彼女が1、2歳のころから私の「カディダウ(やめて!)」を聞いて育っています。
なので、それを実際はcut it outと書くことをまだ知らないかもしれません。
「tがdに変わることがある」という法則的なことも知りません。
今は8歳になったので、「neverthelessっていう単語使える?」と聞いたら、
「使える使える。こうでしょ」と例を見せてくれます。
大人はeven thoughと使う場所が違うことに注目しますが、娘にとってはeven thoughはそれ、neverthelessはそれ、という感じです。
そもそも、「教える」とは何でしょうか?
教えるというのは、すでに上手くなった人が、「結果」を教えているような気がします。
エッセンシャル、本質を教えるのは、難しいのではないか。
本質は、自分で考え、見つけていくもの。
家では野球のボールの投げ方をずっと教えていますが、やはり「型」を教えることになってしまいます。
娘のフォームが違ったら、「違う、こう」という感じです。
「どうしてこのフォームなのか」という本質ではないような気がします。
コロナのせいにしていますが、娘はまだ習い事をしていません。
でも、まだなんとなく躊躇しています。
小学校1年生から3年生くらいまでは、やはり「教わる」のは苦手なのではないかと思っているからです。
教わるよりも、「一緒に生活しながら覚えていく」ことのほうがいいのではないかと。
この世代の子どもたちは、「なぜ」と日常のあらゆることを知りたがります。
「ドラゴン桜」で言っていたように、本質を知りたがります。
そして、親子の会話の中でいろんなことを学び、考えていくような気がします。
私がバイクの教習所で思ったのは、技術の結果を教えるというシステム。
そのとおりの型で走れば上手くいくのはわかるけれども、なぜなのかはわからずに卒業したりします。
大型免許だとバイクを持っている場合があるので、たっぷり一人で考え、実践する時間があっていいのですが、中型だとそれができません。
「これってどうしてだろうね」と一緒に考えるのが、学びであると仮定すると、英語も結果だけを学んでいくのはどうなのか、考え直さなくてはいけません。
このサイトでは子どもが母国語を学ぶように英語を学ぶことを主眼としていますが、たまに結果を出すこともあります。
結果のほうが、読む人のほうは楽しいはずです。答えなので。
答えのない、エッセンスを追究するほうは、文字にするのは難しい。
たとえば、リスニングでは
ネイティブになりきる=相手のすべてを物まねするように聴く
というのを何度も言っていますが、これの受け取り型は千差万別。
「こんなので上手くなるわけがない」と捉える人がいれば、「これはどういうことだろう? よくわからないが、自分で検証し、トライしてみよう」という人がいる。
バイクの中型免許は早くバイクに乗りたくて、詰め込み型にしがちですが、大型免許ならゆったりのんびりすべきです。
一回授業を受けたら、今度は家でじっくり考える。または実践する。
自分で考え、トライする時間が大事。
教習時間は12時間程度でも、それを20時間にも30時間にもすることができるのです。
英語では、話しかけられたり、誰かが話しているのを行動や表情とともに聞くことで、意味を推測していきます。
間違って解釈したとしても、いいのです。少しずつ修正していきます。
このステップから学ぶのが本質的な言語習得方法です。
それはたとえば、個室で会話することではありません。
実際の生活のシチュエーションですることです。
もしくは、映画やyoutubeなど。
まったくわからない音の洪水から始めるのが、母国語的な学ぶ順序で、考えながらトライしていくものです。
個人的な理解として、ネイザルサウンドや英語風の発音ができていないときは、舌が下がっている感覚があります。
日本語の状態だと思うのですが、舌は基本的に下がっていて、あまり使いません。
英語は、舌は歯で挟んだり、上あごに触ったり、アクティブに動きます。
なので、基本的に浮いていて、「てぃ」と発音するときのように、上あごを一瞬触るようなアクションを常にしているようなイメージです。
娘はどうなのかと考えて、今後注意してみてみたいと思います。
ところで、発音とスポーツにも音楽にも共通しているのは「溜め」だと思います。