感情を入れて聞くってどういうこと? 日本の英語習得の限界。
以前に感情を使うとリスニングが良くなるという話をしたが、これはいったいどういうことなのか、 …
家の暮らし方の件でイギリスBBCから取材があり、土曜の朝から大勢のクルーが家のまわりを取り囲んだ。
小さいころから外国の取材陣に慣れている娘はすぐに英国人クルーらと話を始めたが、撮影が始まると様子は変わった。
なにか質問されても、小さい声でぼそぼそ…。照れている。
たしかに、いつものクルーと違って大きなカメラに大きなマイクと、規模は大きい。人も多い。
少しナーバスになってしまったようだ。
しかし、対する女性がコメディアンなので、少しずつ遊びながら打ち解け、子ども部屋では二人でさんざんしゃべり倒していた。
一方、私は久しぶりのブリティッシュ・イングリッシュに戸惑った。
さらに、カメラの都合と、今まで日本人の取材で全員日本語だったため、私も日本語で答えることになった。
しかし、「英語で聞いて、日本語で答える」という方法は、たぶん無理じゃないかと相談したのだが、「大丈夫!」とまわりが言うので試しにやってみたが、やはり無理。
ブリティッシュイングリッシュに加えて、英語で聞いて日本語で答えるは難しい。
結局、意味がわかったとしても、通訳の女性にまず日本語にしてもらい、日本語で答えることになった。
だとしても、相づちだとか、共感だとか、そういうものがリアルタイムにならないので、多少ぎくしゃくする。
途中、どうしても相手の英語に対してシャドウしたり、英語で少し反応したりしてしまうが、それを抑えていく。
本当なら、このサイトで言っているように、相づちや感情が大事なので、全部訳してから回答するのはコミュニケーションとして問題ありと再認識した。
でも、英語で相手の言っていることを間違いなく100パーセント認識し、言いたいことを完璧に表現できるかというと、そんな自信もない。
通訳の女性の回答が日本語も英語も完璧だったからだ。
その女性Aさんは日本育ち。父親は100パーセントアメリカ人だが日本育ちで、母親がアメリカ人と日本人のハーフ。
父親はAさんに対して完全英語で、日本語はずっとわからないふりをしていたという。でも父親は日本語を話せるし理解できる。
やがて、Aさんは小学校から日本語と英語の本をそれぞれよく読むようになり、英語の家庭教師にも英語を教わった。
通訳は仕事としては通訳用の記号をメモしながら訳すというプロフェッショナルな世界だが、彼女の場合は純粋なバイリンガルだと思う。
しかも日本育ちだから、私が言う「東山文化」あたりの情報もちゃんと理解して話すことができる。
私の娘はクルーが帰るギリギリまで彼らと遊びたおしていたが、ついにブリティッシュイングリッシュだから聴き取りづらいとかいうものはなかった。
ペパピグやベンアンドホリーで育ったからなのか。最近はずっとアメリカンに親しんでいるはずだが、不思議なものだ。
通訳のAさんでさえ初日は「やっていけるだろうか」と思ったらしい(1日過ぎれば慣れたという)。
私は一時期イギリスに取材をする仕事をしていた。アメリカ英語に慣れていた私が最初に電話でブリティッシュを聴いたときは、「なんて訛りが強いのだろう(アメリカンが訛っているのに)」と思ったが、やがて慣れた。
そしてまた遠のいているので、ブリティッシュは訛っているようにしか聞こえず、この日、久々の生のブリティッシュに面食らってしまった。
Hereは本当に「へー」にしかきこえなかった。
もっとバランスよく、イギリスとアメリカの英語を耳にしないといけないなと反省している。
学校で接続詞のthat(that節)を学ぶときは、関係代名詞whatとの違いが強調されたり …
「○○するようになるよ」「しなきゃいけなくなるよ」という言い方は日本語では頻繁に使うが、英語ではどんな言い方になるのか。
例えばwillを使ったものがある。
I will have to go there. そこに行かなきゃいけなくなるよ。
「〜なるよ」という部分をwillにしている自然な例だが、willなので未来のことになる。
「〜なった」と過去形の場合はどうなのか。
それはBecomeだ。
その場合、
I became able to do that. それをできるようになった。
I became unable to do that. それをできなくなった。
という表現になり、未来も同様に、
I become able to do that. それをできるようになる。
I become unable to do that. それをできなくなる。
と表現できる。
I become have to といった表現はなく、becomeの次はあくまで形容詞や過去分詞、名詞がくる。
He become rich.
という感じだ。
では、「食べられるように」ではなく、「食べるようになったよ」と言いたい場合、どういう方法があるのか?
Willでは表現しづらいはずだ。
その場合は、こんな言い方がある。
5歳の娘 英語について最近感心するささやかなこと
・Ourselves と言った。
By myselfとかyourselfは比較的初期に覚えているが、最近、~ ourselves と言っていた。
自分自身、あなた自身から、私たち自身になったが、感心したのは、アワセルフじゃなかったこと。
しっかり、アワセルブズと言っていた。
ourだけどうしてかselfじゃなくてselveになるという仕組みも自然と身につけている。
・Meant
I mean〜 「つまり〜」もよく使われる言い方だが、過去形になるとmeant (メント)になる。こないだ、娘が言い訳するときにこれを使った。
大人の英語学習者としての私は、いちいち、単語を知ったときの驚きだったり衝撃を覚えている。もう数十年前のなのに、「meanの過去形はmeantなのか」とか、meant to be で「そういう運命だった。そうなるようになっていた」と知ったときのふわっとした衝撃。
だからmeantを覚えるのは少し先のような気がするが、娘はさらっと使う。
逆に、悪い意味で気になること
・ちょくちょく、過去形を言うときになんでも最後にドをつける。
前は、buyの過去形でバイドと言っていた。今はboughtと言える。
他にも突然出てくる~ドの過去形。それはさすがに違うとツッコミを入れている。
・thやRの発音が曖昧
昔よりはthで舌を噛むようになったが、withのthは未だにブと発音する。
Rは、勝手にアメリカンなRになっていることがあったり、まったくなっていないブリティッシュなときもある。
アニメではどちらも観ているので仕方がないのかもしれない。
「母国語的に話す」というのは、アクセント、イントネーション、トーン、ジェスチャーから成り立つが、英語学習的には当たり前の言葉が並んでいるだけで面白みがないかもしれない。
しかし残念ながら、母国語的、ネイティブ的な話し方を身につけるには、この要素で十分であり、これ以上は必要ない。
ちょうど昨日、娘がママの化粧道具で遊んでいて、私が「それで遊んでいいの?」ときくと、ジェスチャー混じりで言い訳をはじめた。
そのトーンやジェスチャーがネイティブのそれらしくて微笑ましいのだが、普段からいつもそうやって話すわけではない。
それはどうしてだろうかと、ちょっと気になった。
もしかしたら、私がそういうふうに話さないからかもしれない。
日本人としては、ジェスチャーを交えて、ネイティブ風に話すというのは、なんというか、ちょっと面白い感じになる。
私が娘と話すときは、より日本人らしく無表情、無ジェスチャーで話しているのかもしれないと思った。
そして早速だが、今日の朝から大げさにしてみた。
よくわからないが、アクセントもイントネーションもトーンも、「感情を込める」という意味でジェスチャーに集約されているような気がした。
今後はアクセント、イントネーション、トーン、ジェスチャーに絞って、母国語的スピーキングの話をしたい。
ある記事を目にした。「親が子どもに英語で話しかけている」という家族に出会ったが、その子どもがしっかり話せていないというもの。
本来子どもは、独り言として母国語をぺらぺらと発話するのが普通なのに、それができていないという批判だった。
なので、「子どもに小さいころから英語を教えるのは危険だ」という、よくある記事。
たしかに、「子どもに英語で話しかければそれでいい」わけでもないし、「日本語を話せるようになってからの日本語による英語教育」が素晴らしいとも思わないので、批判する気持ちもわからなくないが、このよくあるパターンの幼児英語教育批判は、とにかく決めつけが多い。
本でも映像でも公開しているとおり、私の娘は早い時期から自然発話していたし、今も一人遊びは英語でずっと遊んでいる。
娘が0歳から英語で話しつづけているが、その時点で私のスピーキングがネイティブ並であるわけもない。
「親がネイティブならともかく」
というただし書きをするが、「片一方の親がネイティブなら母国語として二つの言語を習得する場合がある」というのは大事な事実で、「幼児が2言語を同時習得できる」というのも、否定すべき事柄ではない。
結局、私が実践してみて、親がネイティブかどうかは関係なかった。という結論になっている。
それは英語の映像が簡単に見られる時代だからかもしれないが、親が英語のネイティブだって、日本に住んでいれば子どもは日本語しか話せなくなったりする。
要は、子どもがユースフルだと思った言語が育っていくだけなのだ。
娘の場合は、大好きなアニメや映画を観るのに、英語がユースフルだった。
それは、親の私が英語の映像だけを見せたからだ。
そして、アウトプットとして、私という話相手がいた。
母親とは日本語という役に立つ言語があり、保育園でも日本語が役立った。
だから娘は二つの言語を使い続けている。
彼女が1歳から2歳にかけて、人形でひとり遊びをしながら、英語を話し始めたとき。
それは、アニメの物語や台詞を真似しているようだった。
楽しいその遊びに、やはり英語は必要だったから、自然発話は英語になったのだ。
幼児に対して、「どのように教育すべきか」と、正論を掲げても実用性はない。
子どもは好きなことを好きな分だけやる。
英語も日本語も、楽しかったら、有用的なら使うのだ。
ある日の夕食。 娘は妻が作ったトマトスープが美味しかったらしく、全部食べたのでビデオに撮っ …
外国の知らない歌は本当になにを歌っているかわからないが、ただ同じように歌うことはできる。
そのために、歌詞カードを開く必要はない。耳で歌を聴きながら、その直後に同じ音を出せばいいのだ。
たとえ知らない歌でも、その方法で知っていたかのように歌うことができる。
日本語の歌でも一緒で、聞いたことのない歌を知っていたかのように歌うことができるのだ。
しかも、それを繰り返すと、英語でもフランス語でも韓国語でも、次からは自然と口ずさんでしまうのが不思議。
適当ながら、歌えるようになるのだ。
これは、「耳で聴き、歌うことで覚えてしまう現象」。当たり前だが、これは現象だ…。
しかし、歌はボリュームを上げてなければ、自分の声で聞こえなくなってしまう。
実は子どもはこれを幼児期に繰り返しているのだが、自分で話してしまうと人の声が聞こえなくなる。
なので、じっと黙って聞いている。
聞いているが、真似している。自分で話すように聴いているのだ。
聞いた直後に真似をするというのは高度な技で、大人のように予測して聞いたり、言う状態と違う。
だが、脳の中では真似をして話しているので、スピーキングしているのと一緒だ。
だから、練習しなくても最初からさらっと話し出す。
私はこの現象を娘の歌を覚える過程で発見した。
2、3回は黙って聞いているのに、それから聞かないでしばらく経ったころに、突然その歌を歌い出すのだ。
最近はないが、小さいころにはそれが頻発していた。
引っ越しでアメリカの小学校に入った子どもがずっと黙って教室で過ごしているのに、ある日突然話出すのも同じ現象のはずだ。