「○○するようになった」という場合の唯一の言い方
「○○するようになるよ」「しなきゃいけなくなるよ」という言い方は日本語では頻繁に使うが、英 …
最近、引っ越しのために娘と二人きりになる時間が変わったり、英語の発達面でも余裕ができたりしたせいか、少し英語で話す時間が減ったように感じることがあった。
日本語の発達が遅れないように、1年ほど前から少しずつ私からの日本語も増やしてきたのだが、そのせいか、日本語で話しかけられることも増えた。最近、日本語使うねと聞くと、「だって日本語わかるじゃん」と返された。
このままではいけない。
今一度、少し気を引き締めて二人では英語でと意識を変えて、また英語でのやりとりを増やしている。
ただ、日本語を聞いていると、本当に「よくそんな表現を覚えてくるなぁ」と思うことが最近は特に多い。
細かい部分だが、ニュアンスも的確に使う。
どの子どもも、母国語はそうやって完璧になっていくのだが、やはり感心してしまう。
英語は相変わらず映像が好きで、途中で止めると泣くくらいなので、とにかく勝手に英語表現を覚えていく。
そっちも、挙げればキリが無い。
昨日は妻に「お風呂入るよ」とアニメの途中で言われ、私がそのアニメを消そうとすると、「そのままにしてほしい」と言うので、
How long?
と聞くと、
「As long as ~」という表現を咄嗟に使っていた。「お風呂に入っている間もずっとそのままにしておいて」的なことを言いたかったらしく、untilでもbyでもwhileでもなく、as long as。
学校では定番の表現だが、その場合は「〜する限り」と教わっている。そう覚えた場合、日常で使うチャンスはあまりない。
でも、娘としては「その間」とか、「それと同じだけの時間」という風に使っていた。
そんな娘と、目と目を合わせ、感情たっぷりに英語のやりとりを毎日している。
余計なことを考えずに、感情優先で言葉を出して、楽しんでいる。
本にも書いたが、英語をまだそこそこのときに、海外で英語で喧嘩をしたことがあり、そのときにスラスラと英語が出てくる感覚を強く覚えている。
それが何なのかというとうまく答えられなかったが、最近このサイトで追究している「感情」から紐解けば、答えは見えてくる。
感情を込めて話すと、自然とアクセントに力が入り、発音面が向上する。
ジェスチャーも加わり、よりネイティブの位置に近づくことができる。
それに加えて、「反射」という要素も加わる。
感情で沸き上がるものを口にするので、余計なことを考えずに反射的に言葉が出てくる。もしくは出す。
「感嘆詞から始めればいいのだ」という前回述べた方法に従い、「オーマイガッシュ」「リアリィ?」「イエス!」と口に出し、その感覚で出てくる言葉を出して行けばいい。
それが「反射」であり、「感情」と「反射」は近い位置にいる。
「喧嘩」は、その「感情」と「反射」を備えている。
喧嘩に待つ時間なんてない。相手に対してすぐに言葉を出さなくてはいけない。だから反射的になる。
間違っていようが関係ない。感情もこもってくる。
喧嘩上等。母国語英語に喧嘩上等。
うちでもたまに娘と英語で言い合いをしているが、親は本気ではない。
でも英語の掛け合いがリアルでいい。
反射的に言葉を出すことについて、最初は適当な言葉しか出ないから、「意味があるのか?」と思うかもしれないが、間違いなく、これが母国語的スピーキングの基礎となる。
反射的でありながら、少しずつ整っていくのだ。
そこを目指さなければ、永久に暗記英語の呪縛から抜け出すことはできない。
母国語的スピーキングにおいて、一番理解されないのは「トーン」だ。
これはたしか、本ではカットした部分だと思う。
トーンはたしかに分かりづらい。実際にネイティブの人がネイティブ同士で話しているのを聴かないと分かりづらい。
私の場合、世界各国のジャーナリスト集まる場所で、カリフォルニアの女性の話す英語に強いトーンを感じた。
先日会った友人の2歳の子どもが、ママとパパより犬の「ポッキー」の名前をはっきり言えるようになったという。
ポッキー。
たしかに言いやすい。
これは、このサイトで言う、パイプ音だ。
パッとはじける音は言いやすい。
どの言語でも同じで、初めて接するときはとにかくパッパッと弾けてればいい。ラッパーのように。
感情を込めて言語を話すには、アクセント(ストレス)が重要になってくる。
ストレスのところに間を置くことで人は感情を込めることができるからだ。
もしストレスがなければ、感情がこもらないビジネスライクなやりとりになる。
そういう意味で日本の標準語はよくできていて、外国人が習得を苦手としている。ストレスの多い方言はより覚えやすいのだ。
ストレスを置くことで、会話のリズムもできてくる。
なので、はじめに何も話せない人が、単語ひとつひとつのストレスを覚えることで、なぜか話せるようになる。
いくつものストレスを繋げていくと、文になるのだ。
そうすると、「ストレスを曖昧にせず、ちゃんと覚えればいいのだ」となって、人の話を聞くときもストレスに集中する。
そしてすぐに習得する。すると、口に出すのも簡単になる。
言語は親から子へ、地域から子どもたちへと引き継がれていく。
その過程で、子どもが最初に覚えるのはアクセント(ストレス)とイントネーションだ。特に0歳から1歳ごろまではそれだけを聴いてるのではないかというくらいで、親は感情を込めて言葉を発するのが望ましいということになる。
ビジネスライクに赤ちゃんに話しかけていると、言語習得が遅れるのかもしれない。
そうしてアクセントを覚えた赤ちゃんは、「バブバブー」といった喃語から「マッマ」とか「ワンワ」とか、アクセントの強い発音を始める。
平坦な「あけましておめでとうございます」といった発音はまだできないのだ。
日本人が外国語学習をする場合、教材の発音などを使う。
それが、非常に感情がこもっていない。アクセントとイントネーションは情報として入れてはいるものの、「生きた発音」ではない。
そのため、
母国語のように英語を覚えたいといっても、その過程ではどうしても「理解したい」「聴き取りたい」といった気持ちが出てくる。
あまりそこに気持ちが傾きすぎたときは、基本に戻る。
「ありのまま」だ。
たとえばドラマの英語を聴くとき、ありのままを受け止め、ありのままを聴く。
もしかしたら、その俳優たちの英語はアメリカ英語の中でもだいぶクセがあって、聴き取りずらいかもしれない。
それでも、ありのまま聴く。
理解しよう、聴き取ろうと思わない。その音をただ受け入れる。
もしそれが母国語だったら、それがどんな音であれ、基本的な音で、正解だ。
聴き取れないから、「この英語はクセがある」なんてそれほど思わない。
リダクションもリンキングも、そのまま聴く。
そのときは、「ひとつひとつ聴く」とか、「真似するように」とか、ここで述べたいろいろな方法のことも忘れる。
ただ聴く。
その言語が、自分の母国語だと思うこと。その言葉以外、使えないと思うこと。
「日本語で翻訳してはじめて理解したと思う」とはまったく次元の違う「理解」がやがてやってくるはずだ。
ある日の夕食。
娘は妻が作ったトマトスープが美味しかったらしく、全部食べたのでビデオに撮ってほしいと言う。
トマトスープは妻が朝に作ったもので、夕食用だったのだが、妻は忙しくて帰ってきていない。
私がiPhoneで構えると、なにごとかいいながら空になったスープの皿をみせる。
彼女は、歌うように何度も言う。
A bowl that’s clean! A bowl that’s clean!
日本語にすると、「空になったおさ〜〜ら〜〜」という感じだ。
カタカナだと、「アボウル・ザッツ・クリイイ〜〜ン」と歌っている。
つまりは関係代名詞。
このサイトでも何度もやっているが、大人としてはすぐに「あ、関係代名詞」と反応してしまうやつだ。
最初に中学や高校で学んだときのことを思い出すと、
A bowl that you have といった感じで、「あなたが持っているお皿(ボウル)」とか、My daughter who is tallerで「背の高いほうの娘」とか、何かを特定するのに使うと教わってきた。
でも、娘が使ったように、「お皿がきれい」とか、「きれいなお皿だよ〜」と、単純にA bowl is clean. と良いそうなところでも使える。
また、
A bowl that it’s clean.
というイメージもあるが、省略されて
A bowl that’s clean. となったりする。これはitが省略されているのか、それとも関係代名詞が省略されているのかわからないが、A bowl it’s clean. よりも感覚的にはthatなので、関係代名詞にアポストロフィーがついているはず。
よくあるパターンなのに、「関係代名詞のthat」と教わってきているので、アポストロフィーsのイメージが最初はわかないかもしれない。
ここらへんの話を日本人でよく勉強した人が解説すると、非常にややこしいことになる。
そもそも文語的なので口語で使わないとか、難しく考えがちだ。
ちなみに、この言い方は「私がよく使っていたために娘が覚えた」というものではなく、私は関係代名詞はよく使っても、このニュアンスで使ったことは一度たりともない。
いや、そんなことはない。ある。
「あの遊び」だ…。
それは、小さい頃からよくやっていた、
I spy with my little eyes~~という遊び。これは「今みているものを当てて」というゲーム。
I spy with my little eyes… といって何かを見つけて、
Something red! (赤いもの!)と言う。
これはSomething that’s red. もしくはSomething that’s the color red. を省略したもので、遊んでいるときは時々このthat’s を使った言い方をする。※the color red は「赤色」という言い方。
Something that’s smelly. (くさいもの)とか、Something that’s bigger. (大きいもの)といった感じだ。
もちろん、もっと長くして、
Something that is so beautiful.
でもいい。
ちなみに、当てるものは頭文字にして、
something beginning with C (Cで始まる何か)という感じで言ってもいい。
というわけで、
Something that’s ○○
はアリ。難しく考えず、感覚的に使えます。
5歳になった娘だが、さすがに話すだけではなく、読み書きの勉強を始めている。
「母国語を話すようになる」と「読み書きができるようになる」は本当に別モノだと実感する毎日だが、話すほうは相変わらず勝手に表現を覚えてくる。
こないだは、「怪獣って何?」という話から、「ウルトラマンと戦うやつ」となり、「ウルトラマン小さいころに観たよねー」という会話になった。
そのとき、付加疑問詞が登場した。
When I was a baby, I watched the ウルトラマン, didn’t I?
前から付加疑問詞を彼女は使っていたものの、isn’t it? ではなく、didn’t I? は記憶にない。
いつも通り、私からではなく、アニメから覚えているので、「肯定文のあとに否定」とか、意味とか、文法的な学習はしていない。
それでも子どもは言葉を覚えていく。
推測から言葉を覚えていくと、それは感覚的なものになっていくのだ。
シュワーサウンドを簡単に説明すると、ストレスのために、ストレスがない子音部分が生まれるということ。
たとえば、Todayはdaにアクセント、ストレスが来るが、その部分の子音であるaははっきり発音される。
デイ
となる。
Toの部分はトゥという感じになるはずだが、ストレスが別部分にあるために、母音部分が非常に短くなってしまう。
それがシュワーサウンドだ。
なので、Todayはトゥデイ。となり、小さいゥは非常に弱い。これは発音記号としてはeを逆さまにして表示され、シュワーサウンドと呼ばれる。
英語では母音をはっきりと発音するという日本の標準語にはない特長があり、母音があるために口のかたちが変わる。子音だけでは変わらない。
Toは子音+母音なので、トゥウとなるはずだが、シュワーサウンドでは最後のウを発音しない。でも小さいウのせいで口はすぼめるようなかたちになる。
これは日本語の標準語に近く、子音と母音が一瞬だけ一緒になる。
connectを例にとってみると、ネクトをしっかり言えばいいわけで、コは付け足しのようになり、コオネクトとはならない。コは日本語の標準語のコに近い。
シュワーサウンドは、シュワーにしようと意識する必要はない。
ストレスの部分でしっかり息を吐いて、一息で発音するというルール(パイプ音)を実践すれば、自然とシュワーになる。
TがリダクションするVanishing Tも、このパイプ音の実践で自然とできる。
Sentenceは冒頭のセでストレスがあるので、その後は息を吐き続けている弱い発音になる。
するとtはnと同じ口の動きのためにnに呑み込まれてリダクションしてしまう。
おそらく10年ほど前に、ネイティブの人が書いた「英語で考える方法」的な本を読んだ。
何度も読んだが、英語で考えられるようにはならなかった。
当時は仕事でも英語を使っていたけれど、仕事の英語というのは言い方がだいたい決まっているので、自然と使えるようになる。
メールもよく書いたが、それもだいたい定型になってきて、自由な表現とは言いがたい。
今は英語で考えるようになっただろうか。
少なくとも、当時よりはずっと自由に、英語を話し、英語で考えることができる。
だが、「英語で考えろ」というのは、少し違うような気がしてきている。
ネイティブの人が世界中の人に英語を教えるときに、「英語で考えろ」「訳すな」とよく言う。
だが、いきなり「訳さないで英語で考える」は無理だ。
正しい英語で考えようとすると、ただ時間がかかるばかり。会話でも一切使えない。
となると、