ワイオー の意味。
年末、ショッピングモールに家族で出かけた。妻がお気に入りの店を物色している間、外で遊ぶこと …
子どもの保育園の帰り、妻と私と娘と三人で車に乗っていた。
「今日の○○くんの誕生日会どうだった?」
との妻の問いに娘は、
「嫌だった…」
と泣きそうになりながら答える。朝はほんとうに楽しみにして出かけたのに、何が起こったのか。
日本語で話を聞いてみると、誕生日カードにいたずらをされて、渡せなかったという話だった。
誕生日カードを書いたのに、誰かがその上から何かを書いてしまい、台無しになったというのだ。
(先生からの話では、書いたあとに渡すのを忘れて、古紙袋に誰かが入れてしまったためらしい)
その事件の説明も辿々しかったが、そのあとの「チャレンジごっこ」の説明はもっと酷かった。
「友達とチャレンジごっこをして勝った。最後は○○ちゃんが答えを教えてくれて勝った」
というのだが、そのチャレンジという遊びがなんなのかわからないし、聞いても競争なのかクイズなのかはっきりしない。
妻と二人で何度も聞くのだが、わからない。
車中、妻が「英語やってるから(日本語が下手なのは)仕方ない」という発言にカチーンときた私は、「そんなわけない。日本語でもっと話せばいいだけのこと」とムキになり、家について妻と私と娘で、チャレンジごっこについて日本語でもう一度聞いてみた。
まず、話を聞こうとしても体がゆらゆらして定まらないし、質問の途中で別の興味のあることに向く。
そこから注意し、「しっかり話を聞こう」から始まる。恥ずかしながら、そんな基本もまだやっていないし、でも親とはそんなものだと思う。「まだ子どもだから」という言葉は親にとって非常に使いやすいのだ。
次に、説明でわからないところを親から説明して、「たとえば」と親から説明する。
それを繰り返し、概要は理解した(省略)。
何が言いたいのかというと、そうやって子どもと向き合って、話す時間というのがここ最近、減ってきていたということだ。
それは、日本語でも英語でも同じで、Youtubeが観たいとなったら、親子で話す時間は減る。
親に監督はいないから、少しずつそういう方向に流れていく。
日本語で説明が下手なのは、親の責任で、いつまでも問題を放置していたから。
「英語をやってるから」「まだ5歳だから」
たしかに英語で説明するのは少し上手だけども、英語でも向き合って話す時間は減っている。
その日以来、日本語でも、英語でもしっかりと一日起きたことをお互いに話し、わかるまで説明し、世の中のいろいろな現象や物について話し合うことにした。
車での待ち時間は、私がAIRBAGの文字を見つけて「これなに?(英語で)」と聞くと、娘は「これは車がぶつかったときに体がステアリングにぶつかるから、そのときにバンって袋が出てくるやつだよ」と英語で説明する。答えられないと思って聞いたのだが、Fixiesというアニメでそういうことは知っていたりする。
いろいろなことを質問し、説明し、話すのは、子どもの成長の驚きが隠されているし、説明能力や理解力を高めていくのは間違いない。ちょっとやっただけで、日本語もよくなってきている(気がする。そう願いたい)。
とにかく反省。そして前に進む!
真似するように音だけを聴いていくのはとても重要。解釈に気を取られて次の音に素直に耳を傾けていないと、音自体を聴きとれないからだ。
幼児はそこから始まり、少しずつ音の意味を推測していく。
推測して意味がわかると、音が聴きとれたときに、その単語については意味が頭に入ってくる。
だからといって、前後の関係とか、文法などはまだ考えない。
単語の意味がわかり、次の単語の意味がわかる。
それが繰り返されていくだけだ。
大人がやる場合は、音だけを聴くようにしても、当然ながら知らない単語もあるし、慣れていないから日本語に訳そうとしたりしてしまう。
だから、まずは音だけに集中する。音の意味さえもあまり考えない。
慣れてきたところ、単語の意味を意識するようにする。
なぜなら、人が言語(母国語)を聴いたり読んだり話したりするときのルールがそこにはあるからだ。
それは、勉強して覚える外国語のルールと少し違う。
学校で接続詞のthat(that節)を学ぶときは、関係代名詞whatとの違いが強調されたり …
最近引っ越しがあり、新しい町でよく散歩をするようになった。
そして、家の近くの民家で、英語の教室を見つけた。
外国人子女を対象として、保育園、幼稚園としての機能もあるプレスクールらしい。
庭に出ていた先生にきいてみると、週1でもいいということになり、一度見学に行ってみることになった。
朝の10時。娘を連れてそのスクールへ。娘にとっては初めての体験となる。
子どもたちは円になって座り、自分の名前を呼んだり挨拶したり、いろいろと決まりごとをこなしていく。
なんの説明もなく円の中に座った娘も、名前を書いた札を渡されて、なんとか答えていく…。
ろくに字の勉強をしていないので、自分のアルファベットと共通の名前(動物でも何でもいい)をあげることはできなかったが、夜行動物の話になると元気に手をあげて質問をしていた。
比較的モゴモゴ話しているのに、先生はちゃんと意味を聴き取ってくれる。それが凄い。
私はきっと、見知らぬ教室に入って手を挙げたりするタイプじゃないので、娘がそういう性格であることには本当に驚く。
ましてや英語なので、大人なら圧倒されてしまう。
とにかく、そんな試練をなんなくこなした娘は、「行きたい」と言い出した。
非常に高額なプレスクールではあるけれども、近所だし、習い事は特にしていないし、残り1年、週1回だけ通わせてみようと思う。
最初は週1回じゃ足りないと言われたが、インターナショナルスクールに連れていくものだと思っていたらしく、そうでないならば自由らしい。
曜日だとか、月だとか、基本的なことは案外、私は教え切れていない。
そういった部分を100パーセントEnglishで他の子どもたちと学べるなら、いい機会になると思う。
最近、引っ越しのために娘と二人きりになる時間が変わったり、英語の発達面でも余裕ができたりしたせいか、少し英語で話す時間が減ったように感じることがあった。
日本語の発達が遅れないように、1年ほど前から少しずつ私からの日本語も増やしてきたのだが、そのせいか、日本語で話しかけられることも増えた。最近、日本語使うねと聞くと、「だって日本語わかるじゃん」と返された。
このままではいけない。
今一度、少し気を引き締めて二人では英語でと意識を変えて、また英語でのやりとりを増やしている。
ただ、日本語を聞いていると、本当に「よくそんな表現を覚えてくるなぁ」と思うことが最近は特に多い。
細かい部分だが、ニュアンスも的確に使う。
どの子どもも、母国語はそうやって完璧になっていくのだが、やはり感心してしまう。
英語は相変わらず映像が好きで、途中で止めると泣くくらいなので、とにかく勝手に英語表現を覚えていく。
そっちも、挙げればキリが無い。
昨日は妻に「お風呂入るよ」とアニメの途中で言われ、私がそのアニメを消そうとすると、「そのままにしてほしい」と言うので、
How long?
と聞くと、
「As long as ~」という表現を咄嗟に使っていた。「お風呂に入っている間もずっとそのままにしておいて」的なことを言いたかったらしく、untilでもbyでもwhileでもなく、as long as。
学校では定番の表現だが、その場合は「〜する限り」と教わっている。そう覚えた場合、日常で使うチャンスはあまりない。
でも、娘としては「その間」とか、「それと同じだけの時間」という風に使っていた。
そんな娘と、目と目を合わせ、感情たっぷりに英語のやりとりを毎日している。
余計なことを考えずに、感情優先で言葉を出して、楽しんでいる。
本にも書いたが、英語をまだそこそこのときに、海外で英語で喧嘩をしたことがあり、そのときにスラスラと英語が出てくる感覚を強く覚えている。
それが何なのかというとうまく答えられなかったが、最近このサイトで追究している「感情」から紐解けば、答えは見えてくる。
感情を込めて話すと、自然とアクセントに力が入り、発音面が向上する。
ジェスチャーも加わり、よりネイティブの位置に近づくことができる。
それに加えて、「反射」という要素も加わる。
感情で沸き上がるものを口にするので、余計なことを考えずに反射的に言葉が出てくる。もしくは出す。
「感嘆詞から始めればいいのだ」という前回述べた方法に従い、「オーマイガッシュ」「リアリィ?」「イエス!」と口に出し、その感覚で出てくる言葉を出して行けばいい。
それが「反射」であり、「感情」と「反射」は近い位置にいる。
「喧嘩」は、その「感情」と「反射」を備えている。
喧嘩に待つ時間なんてない。相手に対してすぐに言葉を出さなくてはいけない。だから反射的になる。
間違っていようが関係ない。感情もこもってくる。
喧嘩上等。母国語英語に喧嘩上等。
うちでもたまに娘と英語で言い合いをしているが、親は本気ではない。
でも英語の掛け合いがリアルでいい。
反射的に言葉を出すことについて、最初は適当な言葉しか出ないから、「意味があるのか?」と思うかもしれないが、間違いなく、これが母国語的スピーキングの基礎となる。
反射的でありながら、少しずつ整っていくのだ。
そこを目指さなければ、永久に暗記英語の呪縛から抜け出すことはできない。
母国語的スピーキングにおいて、一番理解されないのは「トーン」だ。
これはたしか、本ではカットした部分だと思う。
トーンはたしかに分かりづらい。実際にネイティブの人がネイティブ同士で話しているのを聴かないと分かりづらい。
私の場合、世界各国のジャーナリスト集まる場所で、カリフォルニアの女性の話す英語に強いトーンを感じた。
先日会った友人の2歳の子どもが、ママとパパより犬の「ポッキー」の名前をはっきり言えるようになったという。
ポッキー。
たしかに言いやすい。
これは、このサイトで言う、パイプ音だ。
パッとはじける音は言いやすい。
どの言語でも同じで、初めて接するときはとにかくパッパッと弾けてればいい。ラッパーのように。
感情を込めて言語を話すには、アクセント(ストレス)が重要になってくる。
ストレスのところに間を置くことで人は感情を込めることができるからだ。
もしストレスがなければ、感情がこもらないビジネスライクなやりとりになる。
そういう意味で日本の標準語はよくできていて、外国人が習得を苦手としている。ストレスの多い方言はより覚えやすいのだ。
ストレスを置くことで、会話のリズムもできてくる。
なので、はじめに何も話せない人が、単語ひとつひとつのストレスを覚えることで、なぜか話せるようになる。
いくつものストレスを繋げていくと、文になるのだ。
そうすると、「ストレスを曖昧にせず、ちゃんと覚えればいいのだ」となって、人の話を聞くときもストレスに集中する。
そしてすぐに習得する。すると、口に出すのも簡単になる。
言語は親から子へ、地域から子どもたちへと引き継がれていく。
その過程で、子どもが最初に覚えるのはアクセント(ストレス)とイントネーションだ。特に0歳から1歳ごろまではそれだけを聴いてるのではないかというくらいで、親は感情を込めて言葉を発するのが望ましいということになる。
ビジネスライクに赤ちゃんに話しかけていると、言語習得が遅れるのかもしれない。
そうしてアクセントを覚えた赤ちゃんは、「バブバブー」といった喃語から「マッマ」とか「ワンワ」とか、アクセントの強い発音を始める。
平坦な「あけましておめでとうございます」といった発音はまだできないのだ。
日本人が外国語学習をする場合、教材の発音などを使う。
それが、非常に感情がこもっていない。アクセントとイントネーションは情報として入れてはいるものの、「生きた発音」ではない。
そのため、
母国語のように英語を覚えたいといっても、その過程ではどうしても「理解したい」「聴き取りたい」といった気持ちが出てくる。
あまりそこに気持ちが傾きすぎたときは、基本に戻る。
「ありのまま」だ。
たとえばドラマの英語を聴くとき、ありのままを受け止め、ありのままを聴く。
もしかしたら、その俳優たちの英語はアメリカ英語の中でもだいぶクセがあって、聴き取りずらいかもしれない。
それでも、ありのまま聴く。
理解しよう、聴き取ろうと思わない。その音をただ受け入れる。
もしそれが母国語だったら、それがどんな音であれ、基本的な音で、正解だ。
聴き取れないから、「この英語はクセがある」なんてそれほど思わない。
リダクションもリンキングも、そのまま聴く。
そのときは、「ひとつひとつ聴く」とか、「真似するように」とか、ここで述べたいろいろな方法のことも忘れる。
ただ聴く。
その言語が、自分の母国語だと思うこと。その言葉以外、使えないと思うこと。
「日本語で翻訳してはじめて理解したと思う」とはまったく次元の違う「理解」がやがてやってくるはずだ。