リスニングはリズムを合わせる 後編
リズムが合うというのは、一緒に話しているのと同じなので、途中に訳したり考えたりする暇はない …
「英語が話せない」という人に、「Oh」「Yeah」「No」だけでコミュニケーションをしてみようと誘っても、誰もしないと冒頭で書いた。
できるのだけど、できない。
お酒を飲んで酔っ払ったらできる。
何度も実験したが、誰もできない。
「Oh」「Yeah」「No」は訳す必要がないほど簡単な意味なのに、人はもっと難しい単語や文法に興味を持つ。
じゃあ、その難しい文法を実際にネイティブを前にしていつ使うのか? という問いには誰も答えられない。
極端な言い方をすれば、「Oh」「Yeah」「No」を使いこなした時点で、「英語はあなたの母国語になった」と、言うことができる。
このブログで、娘のリーディング学習において、フォーニックスやアルファベット読み、母音読みがあるという苦労を伝えてきた。
だがその前に、もう一つの方法があるのに気づいた。
ローマ字読みだ。
フォーニックスはラテン発祥だから、ローマ字読みと繋がっているはずだが、昭和49年生まれ、中学から英語を学んだ世代は、最初にローマ字読みを教わった。
フォーニックスはやっていない。
ローマ字読みは、日本語の言葉をローマ字で書いたり読んだりするものだとして教わった。
そのせいか、娘には一切教えていない。
たとえば、Finishという言葉があるとして、娘は最初頭の中で、フ、イ、ヌ、イ、シュと読んで、知っている言葉と照合し、「フィニッシュ!」と読む。
だけども、自分の場合はこうなる。
フィ、ニッ、シュ。
Fiはすぐにフィと読むし、niはニと読む。
これはローマ字読みをやっているからだ。
Konbanwa. Kyouha ii tenki desune.
と書けるのは、ローマ字読みをやったから。やっていないと、できない。
ローマ字読みをやれば正しく英語を読めて発音できるのかといえばそうではない。
たとえばNewはネウ、Goodはゴオッド、Honeyはホネイと読んでしまう。
Honeyはフォーニックスだとホ、ア、ヌ、イ(アルファベットもしくはサイレントワード)、イ(Yのフォーニックス)となる。
子音のHとOを繋ぐのはローマ字読み的な感覚で、NとEとYを繋ぐのもローマ字読みの感覚だ。
子音+母音という基礎。
そうなると、読み手の感覚としてはHO+NEYの組み合わせで読む。
フォーニックスのように、ホ、ア、ヌ、イとならない。
フォーニックスの中にローマ字読みは含まれているのかもしれないが、フォーニックスのあとにはっきりと子音と母音の組み合わせ方を教えないと駄目なような気がする。
ふっと強く息を吐くとお腹が動いて、ひっこむ。これが複式呼吸だ。たとえばボクシングのスパーリングで、パンチのたびに息を吐くのも、腹式呼吸。ふっ、ぱっ、ほっと、なんでもいいので、強く息を吐く。
全身で吐くことを意識すると腹式になる。
アメリカン英語はこの腹式呼吸を使って発音する。そのため、手を口の前にかざすと息がたくさんふきかかる。
発音の前に息を吸うという行為が必要なはずだが、それはどちらかというと肺を使う場合(胸式呼吸)。日本語の場合は文章の前に息を吸って、文章の最後までで使い切る。
「そうだね」と文の最初に言うときに、「言いながら吸う」ということもできるのだ。
一方、腹式は準備なしに突然音を出せる。小さい音になればお腹が動かなくても腹式になり、慣れると一語ずつに使える。ただ基本的に胸式よりも音が大きくなる傾向にあり、街中で英語の声が聞こえてくるのはそのせいかもしれない。
英語におけるSV(主語+動詞)の順序は思考したり話すときの基本となるが、リスニングでも強力な武器となる。魔法があるとするなら、このSVこそが魔法なのかもしれない。
リスニングにおいて、相手は最初に主語を話し、動詞を口にする。
そこを受け入れた上で、やがて発せられる次の言葉を待ち、聴く。その繰り返しをしているだけだ。
それ以外のパターンはSVの基本に慣れたあとにオプションとして取り入れていくだけで、常にSVの順序で聴き、理解していくことが基本となる。
ベーシックができてくると、thatの接続詞が来ても混乱しない。ベーシックができていないと、thatの接続詞のあとを独立した文として聴いてしまったりする。
つまり、リスニングでは最初の主語がまず大事で、次の来る動詞が大事なのだ。
相手が何か話しているときに、そこが聴きとれずにそのあとのほうに来る目的語を聴きとれてもあまり意味がない。
とにかく最初の主語。それがAlthoughとかifとか主語ではない何かに遮られても、その次に来る主語をとにかく理解すべきで、話している最終に聴きとれなかったら話をとめて確認すべきだ。
娘と0歳から英語で過ごし、4歳ごろまでは100パーセント英語だった。それは反射的に出てくるレベルになっていて、上出来と言えた。
それが、やはり日本語をもう少し鍛えようということになり、私も日本語を交えるようになった。
もうすぐ6歳の誕生日を迎える娘の日本語は、たしかに上達した。
日本語も読めるようになり、英語もフォニクスで読めるようになった。
週に一度の英語のプレスクールでも英語漬けの日を楽しんでいる。
しかし、私は不満だ。
なぜかというと、反射レベルでの英語がお互いに減っているから。
気づくと、日常会話の多くは娘が母親に日本語で言うようになった。その日本語の逞しさや表現力は嬉しいけれど、英語は私と二人のシチュエーションや、遊びでないとなかなか出てこない。
前は反射的だったのに。
理由として、二人きりで過ごす時間が減ったこと。前は子どもを私が迎えに行って、妻があとから自分で帰ってくるというパターンで、その間に二人の時間があった。
今は引っ越して一緒に迎えるようになったので、二人きりという時間はほぼない。
お風呂の時間だったり、遊びの時間、勉強の時間はたしかにある。
でも、それ以外のトークが少なくなっている。
日本語で母親にペラペラと話しかけているようなことも、何か減ってきているような気がするのだ。
しかし実際、どの家でもそうだが、親が子どもにあまり話さないで一日が終わることも多いはず。
保育園に行って、ご飯食べて、お風呂入って寝る。
その間にそれほど時間は多くない。
英語というのは不思議だ。
前は娘以外の子どもに話しかけようとしても、思わず英語が出てきた。
反射的だったのだ。
だから娘にも反射的に出る。それが最近、衰えていると感じる。
お互いに、「日本語でも通じる」という意識が芽生えているせいだ。
0歳からずっと、日本語はわからないふりをしてきた。
それを、使うようになってから雪崩式に崩れた。
「わからないふり」の威力は、凄まじかったのだ。
これを戻すのは、かなり困難だと思う。
自分自身の英語時間を増やすこと
この状況を前の状態に戻すために、何をするべきか。
それはまず、自分自身の日常生活における英語時間を増やすしかないと思った。
私は自宅で仕事をしていて、日本語を使って昼間は過ごし、考えている。
だから当然、日本語でいろいろ考えているし、日本語で生活を送っている。
英語のリスニングをしたり本を読んだりする時間はあるが、それは日常生活ではない。
つまり、ドアを開ける、何を食べよう、昨日はこうだったけどあっただった、電源にコンセントをさそう…といった日常で考えることを日本語で考えている。
英語で考えるべきだと前の本で提案したが、自分が出来ていない。
出来ていないからこそ、これを続けるのは難しいことだという認識はある。
だが、やりたい。
久しぶりにやってみると、やはり新鮮な気分になる。よっぽどやっていなかったという証拠だ。
また、「感情表現からはじめる」も時々忘れてしまうので、これも心がける。
「何か英語で話しかけないと」と思うこと自体が反射的ではないのだ。
日本語に傾きかけた家庭に、英語のバランスをもう一度。
まずは自分自身の問題として捉える。
ある日の朝、一緒にサイエンスの映像を見ていて、10-4=6という計算が出てきた。
4という答えを見て娘は、
I knew it was 6. と呟いた。
これは、あのエイリアン2の台詞と同じだ…。
やっとのことで宇宙船のエイリアンを追い出したリプリーと子ども(孤児)のニュート。
リプリーは声をふりしぼるように、
We made it. (やったわね)
と言う。
ニュートはダクトに落ちて、それがきっかけでエイリアンにさらわれるという絶望的な状況にいて、リプリーは必死の思いでニュートの場所を見つけ出し、救い出したのだった。
リプリーの
I made it.
に対して、ニュートはさらりと言う。
I knew you would come. (I knew you’d come)
「あなたが来るの知ってたよ」
日本語字幕では「信じてたよ」と意訳されていたが、さらりと子どもが言うところが粋なわけで、「信じてたよ」では台無しだ。
ところで、このI knew はもちろん「知ってたよ」という意味だが、
I knew it.
はよく子どもが使う。「知ってた」ことは子どもにとって大事なのだ。
目を見て、ひときわ大げさに話す。
これが私が最近、娘に話しかけるときに心がけていることで、感情たっぷりに会話する。
外から見られると、ちょっと滑稽かもしれない。
娘は時々そういうふうに話すし、時々そういうふうに話さない。
話さないときは少し小さい声で、日本語のようにフラット化していく。
日本語は、とくに標準語は、とにかくアクセントがないフラットで、感情を込めない。
一方、日本の方言はアクセントたっぷりで、感情を込めやすい。
娘の日本語は東京なので標準語で、ぼそぼそと小さく話すと何を言っているのかわからない。
英語でもぼそぼそといじけて話すときは聴き取りずらい。
そんな状況も放って見守り続けていたが、先日、お風呂上がりに、そのことについて説明してみた。
「日本語はフラットだけど、英語はフラットじゃなくて、アクセントをたっぷり使っていいんだよ」
ということ。
素直に聴いてくれた。
アクセントの位置は間違ってないから、もっと大きく、堂々とストレス部分を弾いて、はっきりと発音する。
たまにそんなときがあるけど、その時間をもっと長くしよう。
日本語の発音と英語の発音の違いを意識しよう。
しばらく指導をしてみようと思う。
You’re gonna wanna は直訳すると「したくなるわよ」だが、実際は違うし、文法的には正しくないらしい。
これを使うのは少し上から目線で、教師とか講師、上司、親が使う。
丁寧な命令をするときに使える言い方で、ニュアンスとしては、「〜してください」「〜するといいわ」という感じだ。
どうしてgonnaとwannaを繋いでそういう命令形になるのかというと、そもそもgonnaは親が子どもによく使う。
日本語でも「落とさないわよ」と親が子どもに言ったりするが、未来形だったりする。
「にんじん食べるわよ〜」と進行形で話したりするのだ。
なので、You’re gonna eat the carrot. で、やさしい命令形になる。
You’re gonna wanna は、それにさらにwannaを足しているので、それより少し丁寧になる。
You’re gonnaだけだと、親から言われているみたいで大人はムッとなるが、wannaが入ることで和らぐ。
実はwanna単体でも親が子どもに言うときにやさしい命令形になり、gonnaと同じ役割があるので、同じものを二つ繋げただけで、「〜したくなる」という意味にはならない。